(二十二)
ザーザーと鳴る雨音が聴覚を刺激し眸を開けると夫はまだ眠っていた。昨晩はあれ程強引であった癖になぜこの男は自分を腕に抱いて眠るのか。確かに昨夜は自分が失言をした。どんなに夫という殻で覆おうとは毛利元就の妹で彼がこの世で一番憎む男も毛利元就なのだ。
「やはり……」
身籠れぬ、身籠ってはならぬ。
そう思えば心の奥が痛くなった。昨夜、雷鳴の鳴る中思い出さずにはいられなかった恐怖より、薬を使われてあられもない声を上げさせられたことより苦しい。あゝ、覚悟しているはずであったのに。
耳をすませば雨音が昨夜より弱くなっているのが分かる。雷も遠くへ去ったようだ。日輪を隠す雨は身体を冷やすには丁度良い。後で抜け出してまた井戸水を浴びなければ。昨夜の銀の鬼は執拗だった。何度も穿たれて、自制せねばと思う反面声まで上げて啼いて。果たしてそれはギヤマンの小瓶の中身のせいだろうか。甘露にも似たあの味と鬼のせいにして溺れたかっただけではないだろうか。
は未だ眠る元親の顔をまじまじと見る。大海を駆ける不遜な鬼、我が身を喰らい尽くした男の寝顔はそんな風には見えない。目鼻立ちの整った、女子らが好む顔だ。自分がただの女であったならこの男に抱かれることに喜びしか感じなかっただろう。
だが所詮自分はただの女ではない。毛利の家に生まれ、長曾我部元親と四国を陥れた男の妹としてこの国に嫁いできた人質であり人身御供なのだ。改めてそう思い小さく首を振る。
答えの出ぬ想いに囚われるのは止めよう。
このまま夫に触れていることがいけないのだ、そう思って身体を起こそうと力を入れる。だが、四肢は軋んで思うように動かない。改めて我が身を見れば白小袖など袖を通しておらずお情けで掛けられた程度のものだ。そういえば自分で着直した記憶がない。それどころかいつ寝入ったかも覚えていなければ褥に移動した記憶もない。そう思い至れば余計に心苦しく元親から離れたくなってまた足掻いた。
上半身を起こし白小袖を羽織り帯を結うだけなのになぜこんなにも覚束ないのか。この男と初めて迎えた夜もそうだった。さっさと逃げてしまおうとしたあの夜、元親は自分を呼び止めて朝まで離さなかった。――嗚呼、思い出して何になる。
このまま寝起きを待って顔を合わせても話す言葉など見つからない。今日こそは去るべきなのだ。
同じく夜着を纏わぬ元親に衾を掛け直して立ち上がろうとする。が、予期せぬ方向から力がかかりは均衡を崩して元親の方へと倒れ込んでしまった。
「どこ行くんだよ」
「っ……起きて……」
元親は起き上がり後ろからを掴んでやはり放そうとはしない。肩に吸い付いてもう一度、どこへ行くんだ? と聞いてくる。
「別に、戻るだけだ」
「戻る? あんたの部屋は此処だろ」
表情は分からないが昨夜と変わらず何とも機嫌が悪そうだ。何時にない態度に居心地が悪くなって、放せと言うと彼の声は一層低くなった。
「放すかよ」
「っやめ、」
顔を見ずともわかる。首筋を舐め上げる元親の眸は獲物を見定めた狼と変わらぬはずだ。未だ昨夜の余韻の残る身体にそんなことをされてはたまらずはもう一度抗議の声を上げた。
「日が高くなろうというのに、私がはしたなく其方を繋ぎ止めておると思われるであろうっ!」
「いいじゃねえか。旦那を籠絡するのは女の甲斐性だろ」
「ふざけるなっ!」
「はっ」
一向に止める気配のない元親にいよいよまずいと危機感を募らせて身を捩ると、襖を越え障子の先ににわかに人の気配がする。そうなれば流石に元親の手も止まった。
「あの、申し訳ございません。殿」
「んだよ」
声の主は侍女頭だ。
「谷様より火急の知らせがございまして、安芸の福原様より書状が届いたとのことでございます。すでに親貞様親泰様にも早馬を出したとのことにて」
懐かしい名には我知らず、じい、と呟いた。毛利の取次役に母方祖父福原広俊が任に就いていることは無論知っている。ただ、祖父が何をしているかを知るのは何かが終わった後で、このように今しがた何が届いたなどと聞くのは馴染みがない。
「……そうかい、分かった。支度する」
元親はそこで漸く妻を解放した。ずれた衽を戻し小さく息を吐く間に元親は立ち上がり手早く自分の帯を締める。何の疲労も見えぬのは男であり武将故なのであろう。妻を見もせず部屋を出て行こうとする元親の背中にはっとし咄嗟に呼び止めてしまった。
「もとっ……」
すると彼は驚いたように振り返った。同じように自分の行動に愕然とするに、ゆっくりと近づいて片膝をつくと先程とは違いそっと頬に触れて来る。
「もと、なんだ?」
「……っ、」
「俺の名はもと、だけじゃねえだろ?」
その聲に居心地の悪さが爆ぜたがでもどうしていいかが分からない。
「……なんでも、ない。……ちが、う、支度」
「ふーん? いいさ、あっちでやるから休んでろ。いいな?」
などと元親は愉快そうに口の端を釣り上げて何時もの顔だ。頷くしかないが彼の望みのままそうすれば彼は満足そうに襖を開け障子の先へと抜けて行き、誰も居なくなった褥に手を置いては小さく震えた。
今私は何をしようとしたのだろう。もと、確かに元親と名を呼ぼうとした。そんなことをしてどうしたいのだ。まさか普段と違う情交にほだされたとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。そもそもあのような男など心情的には呼び捨てにしてやりたいが外聞としては様を付けてやらねばおかしい。いや、私が様づけで呼ぶなど気持ちの悪い話で。
「……意味が分からぬ」
放せと言ったり呼び止めたりなんなのだ。忘れたか、あの男は兄の名を出すだけで昨夜のような暴挙に至るのだ。あんな甘い言葉を連ねたとて深層にあるのは憎悪かはたまた後ろめたさに違いない。
は首を振り褥に横たわった。衾をかぶりれば元親の黒方の香が香って惑乱に染まる。早く身体を冷やさねばと思うのにどうしても抗う気にはなれなかった。
妻への自己嫌悪と驚きを内包したまま支度を済ませ主殿へ戻ると家臣谷忠澄はもう登城し控えていた。神職の家に生まれた人間らしく冷静で物静かな人間だが素晴らしく切れる男だ。優秀であるが故に重用もしたが、古参がうるさいが為に彼を家老職に置くのは専ら臨時に留めるしかなく何時も惜しく感じている。そういえば奥州の独眼竜の右目も神職の家の生まれであったかと思い出し、奇妙な共通点だと感じざるを得ない。あの竜も右目を重用しているがやはり一門に憚り一位格とはしていないようだ。
「アニキ、早朝より申し訳ありません」
「気にすんな」
支度といっても、薄い柄物の小袖を着流し肩には胴服というより打掛に近い上着を羽織っている程度だから忠澄は叩き起こしてしまったのかと憂慮しているのかもしれない。当初この忠澄は”アニキ”と呼ぶことも躊躇した。育ちの良さと無論古参を憚ってもあるだろうが、頭の固い家老連中とは一線を画して欲しく彼には固く殿と呼ぶことを禁じている。忠澄からすればいい迷惑かもしれないが、それで船の野郎共とうまくいくならそれに越したことはない。
「それで」
「はっ此方に」
手渡された斐紙は捻封がなされ、封紙の表には忠澄宛てで福原の実名が、裏には福原の苗字と通称が記された模範的な外交書状だった。中身も簡単な近況報告なされた後、長曾我部側から問いかけられた質問の答えが綴られている。福原曰く、長曾我部のからくり兵器が上関はじめ毛利領内に在るはずがない、毛利も移転や城の造営に忙しくそこに回す金子などない。何より、今からくり兵器を所持するなど徳川を煽ることになりかねない、とのことだった。また福原は、ことがことだけにまだ元就の耳には入れていない、此方も詳しく話を知りたいので四国を訪問してもよいだろうか、と記していた。
「どう思う?」
「これのみでは何とも」
「まあそうだろうな」
「ただ……聊かいつもより筆跡が歪んでいるように思えます。動揺が見て取れるような」
「動揺ねぇ……、どっちにとるか、だな」
「左様です」
「毛利の耳に入れてねえってのもどうだかな。揉め事になるのを防ぐ為か、ただの振りか。上関に飛ばしている草はどうだ」
「未だ」
「毛利にゃ前科があるからな、一人帰って来ねえなら束で何度も飛ばせ」
「はっ、すでに準備は整えてあります。昼までには発たせまする」
「出来るだけ早くな」
「御意」
「福原の爺さんだが……、一応毛利に断り入れてからこっちに来るように言え」
「上関のこと毛利の耳に入れてもいいと?」
「毛利がすでに何か企んでんならばれた後の対策なんてとうに立ててんだろ。あくまでこっちは筋を通せ。それが家康に対する姿勢を示すことになる」
「心得ました」
「まー基本的にはそんなところか、毛利の耳に云々は親貞と親泰が来てからでいい。勝手に決めて親貞の大目玉くらいたかねえからな」
「私もそんなアニキを見たくありません」
「だろ?」
元親が喉の奥を鳴らすように笑うとはるか遠くで馬の嘶きが聞こえた。恐らくは急を要した親泰辺りが其処まで馬を乗り入れたのだろう。主殿は朝の支度に彼方此方で人の気配がする。俄かに活気付く主殿に身を置きながらも思い出されるのは奥御殿、否、の周囲の静けさだ。毛利が何かを仕出かしていたらへの疑念はまた噴出するだろう。身一つで嫁いできたを守ってやらねばならないが、もし昨今の態度が元就から籠絡するよう指示が来ていたが故であれば、と考えると何とも言えなくなる。元親自身いい歳だ、それなりに経験もあれば、のような女が色恋に器用でないことも承知している。
「駄目だねぇ」
早く妻からあの男の影を消してしまわねば。自分はまた間違いを犯してしまう。驚いた顔の忠澄に構わずそんなことを考えるのだった。