(二十一)
奥御殿の陰鬱な気色を感じているのは何も奥の女たちばかりではない。国主であり城主である元親もまた警戒心の濃い御殿と訪れる度にホッとした顔をする付きの侍女たちに怪訝な思いを抱いていた。それは若い侍女になるにつれ顕著で、顔を合わせる度に琴線が張りつめたような険しいもので。元来、女の為すことに口を挟む性質ではないが背景が背景なだけに、近侍を使いそれとなく様子も探り始めている。
毛利との揉め事といい骨を休めるはずの奥御殿の空気といい、元親に安寧はまだ訪れないらしかった。今日も今日とて耳に届いた海のいざこざ話は芳しくなく、元親の気色を読んだ親泰が異国船から品だと財を運んできたがほとんど見ずに適当にひっつかんで後は他に配る有様。加えて未だ届かぬ福原からの書状に危疑は増すばかりだ。元親は疲れていた。そして苛つきに似た何かも孕んでいた。
親貞や谷と話がてら夕餉を取り、奥御殿に足を踏み入れた時は五つ時を過ぎていた。
「来たぜ。具合はどうだ?」
「悪しきなどない。皆大げさなのだ」
「よく言うぜ、あれだけ寝込めば誰だって心配するだろ」
元親はの傍に腰をおろし近侍が抱え来た広蓋の中から一つ小さいものを取り出した。
「それはなんだ?」
「親泰の奴が今回の荷から持って来たんだ。異国のものだとよ」
「異国……」
「南蛮の香炉だそうだ」
「ほう……綺麗なものだな」
こいつでもそんな感想が言えるのか、と内心面食らう元親だが口にはせずの手にそっと香炉を置いた。薄桃に紅い花々が散る陶器の香炉は見目麗しい。
「あんた、手ぇ冷てえな。海神への神頼みなんざしなくていい。俺は陸に居るし海に出りゃ負けなしだ」
「……」
「来な」
そう言って香炉を渡し返す刀で彼女の身体を引き寄せた。最初は鼻を鳴らし、阿呆が、と言うばかりのだったが最近ではとかく抗ったりしなくなった。
――細い。
元々細身の妻だったが最近はことにそうだ。奥御殿の差配にも毛利との揉め事にもそれなりの心労があるのだろう。香炉を手にしたまま寒さからか身震いをするの腕を摩ってやれば微かに香が通ってくる。香炉からではない、彼女の打掛に焚き染めてあるものだろう。
夫妻の気色を察したのか侍女も近侍も既に居ない。皆慣れたものだ。互いの吐息と、衣擦れ、そして時折雷鳴を伴う雨音だけが耳を突く。
「それは?」
の言うままその先を見れば西陣や唐織物に紛れて、透明なガラスに模様の入った瓶があった。
「あー……」
「どうした?」
内心、親泰の野郎わざと入れやがったな、と悪態を吐き表では、ああ、と気に掛けた様子もなく頷いて見せた。
「そりゃギヤマンの小瓶だな。もう少しでっかいと酒が入るんだが」
「中身は酒ではないのか?」
「……別もんだ。悪ふざけに入れられたんだ」
「?」
「ああ、ほんとに冷えてんな。雨だから余計か」
「どうして、こんなに構う……」
「そりゃ嫁さんだからだろ」
そう言ってもう一度引き寄せるとはびくりと身体を強張らせた。一体この妻に何があるというのか。此処のところ本当に様子がおかしい。が心気弱なのは心配はあるにせよ一向に構わない。むしろ人らしいところがあるのだと喜ばしく思うくらいだ。ただ気に掛かるのはそうなった日取りだ。元親の許に福原から書状が届いた頃からの様子はおかしくなった。自分とは別に何か実家から書状が届いたのだろうか。頭の固い旧臣らの言うとおり毛利に暁丸の図面を送ったのだろうか? 否、そのようなことは絶対にないと信じたい。何を心に痞えさせているのか、近頃では縋りつくようにもみえるのに閨事を厭うている節もある。さっさと自分に言えばいいのだ。何もかも忘れて、溶けてしまえばいいのだ。
「駒だ、なんて言うのはよしな」
「っ……」
「」
「黙れ! 人になど堕ちたくないっ」
「堕ちるんじゃねえ、戻るんだ」
「は……っ」
は身を捩り元親から離れようとする。咄嗟に腕を掴み逃がさぬ元親と激しく揺れる眸のの視線は外すことを許さない。だがはなおも抵抗し振り解いて立ち上がろうともがく。すぐにこれ以上引っ張れば折れてしまうのではと躊躇する元親の手をすり抜け、距離を取ろうとするはやはり毛を逆立てた猫のようだ。
「掻き乱すなっ! 痛めつけたいならかまわぬっ、好きなだけ甚振って去ね!」
「おい」
「貴様など大嫌いだっ」
「嫌いってあんた、ガキかよ」
元親はあくまでを宥めようと取り合う気はない。彼女にはそれが癪に触るようだがその一方で吊り上げた眸と表情が崩れ落ちそうにも見える。
「落ち着きな。何をそんなに警戒してるか知らねえが俺はあんたの夫だろ。気ぃ張らなくていいじゃねえか」
「貴様はっ!」
「ん?」
「そのようなことだからっ、兄上につけ込まれるのだ!」
「――ッ」
瞬間、元親の脳は一瞬のうちに冷えた。それはにも伝わったようで彼女の顔も強ばる。嫌な沈黙が流れ即座に根負けしたのは妻の方だった。
「何度も言った、私は駒、そのままでいい、捨て置け……っ」
「――ア?」
元親の口から出た声は恐らくが今まで聞いたこともない声音だったろう。胸元の衿を握り後ろへとずり下がるの腕を取りそのままそこに組み敷く。それはひどく強引な為し方だった。
「今日は寝かせるつもりだったが……、――悪ィな、気が変わった」
元親は広蓋に置いたままだったギヤマンの小瓶を開け口に含むとそれをの口に合わせて流し込む。押さえつけられ抗うことも出来ないは突然の為様に逃れる術はない。苦しげに咳き込み嚥下し切れなかった液体は唇を伝い首筋に流れてそれが劣情を誘う。
「放せ!」
「イヤだね」
可愛げのない妻の手を縫い付け細帯を解きながら元親は思う。真に腹立たしいのは彼女ではない。こうやって性急に彼女を蹂躙する醜さを持つ自分だ。本音もぶつけず碌な言葉も交わさぬからこのようになるのだと心内では気づいている。
「ふん、ヤッてばっかだなぁ」
何度も触れて、溶かしていけば彼女の様子は変わる。彼女自身何故そうなのか分からないようで表情からは色んな感情が見え隠れした。怒り、戸惑い、切ない、だが一番にその身を覆っていたのは恐れだった。何時も唇を噛み締めるばかりの彼女から今日は屈服したように嬌声が聞こえるのに、雷鳴が響く度に彼女の顔は強張り眸に零れぬまでも涙を見た気がする。今日はどうしたと問うのを元親は止めた。彼女が答えるとは思えないから。
「ヘッ、様子がおかしいのは俺も一緒か」
ただ薬のせいにしてお互い求め合えばいいのだ。