(二十)
初夏を迎え城内の花々は薄い色から寒色系へと変貌を遂げた。暫くすればその花々にも天の恵みが零れ落ちて一層の風情を与えるだろう。
初夏とはいえ、全身に水を浴びる行為を続ければ身体を壊すのは自明の理だ。水垢離をはじめて二度程高熱を出した。それでも続けようと床から這うに侍女たちは追い縋り、一人は泣き落とし、一人は入口を塞ぎ、無礼を承知で止めに入った。は褥に押し込まれながらも元親の耳に入れるなと頑なで、侍女たちが月の障りと申しますからと言うと漸く衾を被るに至った。
何を思ってそうなさっているのか、恐らくは先頃より毛利との間で起こった諍いのせいだろうとは想像はつくがそれにしても何かに追われるように水垢離をするの姿に侍女たちの不安は増すばかりだ。るいなどは殊更に怯え不安を口にしては侍女頭に動揺を出してはならぬと窘められていた。寝床について薬湯も飲んだはずなのに目を閉じもしないを遠くから案じながら皆諸事をこなし時は過ぎてゆくのだ。
褥に入れられ侍女頭と長い付き合いのある薬師が煎じたという薬湯を飲んだが眠りは一向に訪れなかった。侍女らの心配が分からぬ訳でもないし、事が発覚したときに叱咤を受けるのは彼女たちだ。だがそれを押してもは今妥協が出来ないでいる。本来ならこれを一日たりとて止めてはならぬのだ。
「このように温めては……」
我が身に掛かる衾は否応なく温度上げてゆく。そう思えば焦燥は一層掻き立てられて覚束ない。
が突如水垢離を始めたのは、かえの推察通り海神への祈願などではない。鬼灯の一件が心に黒い染みを付けていたことに加え、侍女頭から伝え聞いた毛利との揉め事はに大きな疑惧を齎した。この先何十年も時を経て何度か代替わりをしない限り毛利と長曾我部の和合はほぼないだろう。長曾我部が毛利に襲撃されて一年経つか経たぬかの今、もし自分が身籠ったら家中は間違いなく割れる。大半は子の長曾我部相続を良しとしない反毛利、子に付くのは何か利権を得たい小者くらいだろう。そうなれば勝つのは間違いなく反毛利で、元親は子を不憫に思い守ろうとするに違いない。それが家中に何を齎すのか。反目は反乱を呼び破滅を引き起こす、簡単に分かる未来だ。
奥御殿に居て何ができるのか、どうすればいいのか、それも簡単なことだ。身籠ってはならぬ! そう結論づいた故には行動に移した。
幾度か具合が悪いと元親を拒否し毎日水垢離をした。体を冷やせば月のものが止まる、身籠りにくくなると遠い昔継母が話していたのを思い出したからだ。水垢離の確たる効果は分からないが十日ばかり月の障りは遅れている。自分の身体をどんなに痛めつけようと耐えることは出来る。だが一つ、銀髪の鬼の姿が像を結べば何ともしがたい息苦しさに襲われ心を蝕むのだ。
侍女が知らせ断るにもかかわらずあの男はよく顔を見に来た。額を合わせ熱を調べ、熱はあれども凍える身体を抱きしめての震えが止まるまで添い寝して付き合った。そうされる度に居心地が悪くなって、でもそれを振り払えない我が身を一人になって詰る日々。我が子を孕まぬ為に妻がそうしていると知ったらあの男はどんな顔をするだろうか。怒るだろう、もう自分の許へ通うことも無くなるだろう。尾を引けば苦しい、だから今拒絶すべきなのだ。そうすれば痛みなど小さくて済む。
「莫迦、なことを、駒に、痛みなど……」
そう呟いた言葉は予想以上に途切れ途切れで弱弱しい。此度の衰弱は自分の予想よりひどいものであるらしかった。侍女頭がもう一枚衾を増やし、かえが心配げに手伝う。時折額に触れる侍女頭の手がひどく懐かしく思えた。それに益々居た堪れなくなって、眠くなくとも無理に寝よう、そうすればこの心苦しさを忘れられると、瞼を落とすことにした。
が全快し半月ばかり経って元親の通いは再開した。全快してすぐに来なかったのはに月の障りが始まったからだ。首をかしげる表の近侍に、女子の身体は繊細故身体が弱れば出血が長引くこともあります、と侍女頭が言いそれ以上相手も詮索しなかったようだ。はで、身籠っていなかったにせよ成功したと思われていたものが功を奏さなかったと知り、もっと冷たい水を、もっと冷やさねばと一人また焦燥に駆られる日々が続いている。
「海の水は……井戸よりも温いであろうな……」
今日もまた水垢離を止められ侍女らに濡れた髪を拭かれ扇で仰がれている。我知らず呟けば沈痛気味だった侍女たちは目を輝かせた。
「まぁお方様、海にご興味が?」
「いや、海風には慣れぬ」
「ならば舟遊びでも? 涼しい場所がお好みですか?」
「少し遠出になりますが祖谷や黒川なら流水の音も景観も美しゅうございますよ。水の流れが緩い場所なら舟遊びも出来るやもしれませぬ」
「これ其方ら、遠出などお方様がお疲れになる」
侍女たちとは対照的にその上司である侍女頭の表情は厳しい。彼女からすればの体調を慮ると同時に身辺の警護が気に掛かるのだろう。
祖谷や黒川の水は井戸よりも冷たいであろうか、その川は海へ続いているのだろうか、流れに流れて何処へたどり着くのだろうか、止めどなく想えど目の前に川はなく冷たい流水もない。は微かに首を振り脇息に凭れた。
「旅をすれば要らぬ金子が掛かる。夫の金子を削った手前もある故な」
「左様にございますか。気分転換にでもと……」
「舟と聞くだけで誰ぞがからくりを持って来てはかなわぬ」
「まあお方様、確かに」
そう言うと侍女らは口に手を当てて笑った。だがは表情乏しいまま思考は未だ水底に沈み、侍女頭とかえは互いに目を合わせ怪訝に思えど言葉が出ずにいる。そして漸く乾いた髪に櫛を通すのはみわだ。
「ようやっと乾いて参りました。お方様、航行の祈願はご立派にございますが雨の日はお止めください」
「其方に不都合があるのか」
「私ではなく、お方様に不都合がおありになるかと」
「うん?」
「七つ時までに乾きませぬとおいでになった殿に攫われてしまいますもの」
「……」
「まあっ」
「これ」
「水も滴る、なんて申しますでしょう? お方様は只でさえ綺麗な御髪をされておりますから一層艶やかな濡髪など殿がご覧になったら大変です。きっとからくりどころの騒ぎではありませんよ」
「其方にとってこの国の国主は骨を見つけた犬か?」
「いいえ違います。鬼でございます」
少し悪戯っぽいような、神妙のような顔をしたみわが答えた言葉には小さく笑い首を振った。皆もまた釣られたように笑い、侍女頭も色青ざめ悄然とした気色も払いみわを窘めるべく背筋を伸ばした。
「これみわ、慮外にも程がありますよ」
「皆様お許しくださいまし」
とまだみわは笑っている。は何度となく思う、みわの鷹揚さは周りの人間を救うと。自分には一生持ち合わせないものだろう。望むべくもないが。
みわの言葉は一時的にも正室姫の心胸に緩みを与えたらしかった。みわやかえがの居室を辞する時、花入や外の水溜まりばかり行っていた視線が他のものに向いていたからだ。そのさまにみわはどれほど胸を撫で下ろしたかしれない。
梅が咲き次いで桜の咲く季節、みわは見たのだ。生け終えた花を持っての許へ行こうと渡殿を越え広縁を進み角を曲がろうとしたときのことだった。正室の居室に不釣り合いな小者がに何か話していた。息を殺して耳を澄ませばに内応を促すもので、だがはそれに応じず、毛利元就はそのようなことは言わぬと答えた。話の口ぶりから小者は長曾我部家中の者だと知って花入を持つ手が一気に湿った。おおごとだと思った。
惑乱のまま足音と水音を立てぬよう渡殿まで逃げ帰りはあはあと息を吐いてその時初めて周りを見回した。忍びは気づいていたのか、それとも子供の頃に悪戯で培った逃げ足と要領の良さが響いて逃げおおせたか分からないが誰にも追われた気配はなく心底胸を撫で下ろした。
花入を置き、渡殿の下に流れる水面に映る強張った顔を見ながらそれでも拍の煩い心の臓を抑えて、絡まり合う思考を手繰り寄せれば、否応なく正室付きの侍女として取り立てられた時の主君の言葉が浮かび、今この時なのだと認識した。その言葉通り女主人が何かに引きずり込まれようとしている。どうするかなどと愚問だった。主君直々に声を掛けられ取り立てられた時からみわの腹は決まっている。
しかしながらどう動けばいいのかまでは即座に思いつかなかった。ただ、生来楽天家で良く言えば快活な自分が何かを気に掛け神妙な顔ばかりしていては皆が怪訝に思う。女主人の身辺に注意しつつ殊更明るく振る舞うことが肝心だと思い至った。それからの前で笑顔を振りまいて数か月、先日見た忍びに似た男がある家臣と密に話しているのを見かけ、みわは掴んだと思った。
後は同僚のかえや侍女頭に相談するのが一番妥当と言えた。だが安易に巻き込んでしまうことにならないだろうか。それは季節が変わった今でも答えが出ない問いだった。
みわはゆっくり振り返りの居室を見る。その先には同じように心配を宿した顔のかえや侍女頭の姿も見えるのだった。