(十八)

 表は騒がしくとも外界と隔離された奥御殿は普段と変わらず緑の爽やかな香りに包まれゆるりとした時間が流れている。隔離、と書くのは語弊があるかもしれない。この奥御殿の主は此処に監禁されている訳でもないし、正室というのは本来ならば国主に次ぐ決定権の持ち主でもある。そのけの字さえないのは他ならぬ家中の気色故であるのだが、それはもう語りつくしたことだ。尤も、表が荒れれば如何にかしようと家臣が奥へ流し、奥もまた無縁ではいられないのが戦国の常、の耳に持って来る家臣が侍女しかいないというのは奇異な状況と言えるだろう。
 庭先でまばらに生えた花を間引く下女を遠目に見つめながら想う。毛利という大輪を咲かす為に間引かれた者たちの数を。次は長曾我部という花を咲かせる為に間引かれるのは誰であろうかと。
「埒もない」
「お方様?」
「何でもない、……静かなものよな」
「誠に。家中の女子共もご機嫌伺いに参りませぬ故」
「これ」
 失言の侍女を窘めるのはみわだ。気が利くが故に奥御殿へ行儀見習いとして上がった新参の侍女るいは年若くこういうところが覚束ない。彼女自身、親に連れられ折々の挨拶に城に上がることがあったのだろう。ただそれを思い起こす故の発言に目くじらを立てる気はない。
「よい」
 申し訳ござりませぬ、と顔を青くする娘にもう一度、よい、と言いは再度庭を見る。少し考えればこの娘も哀れだ。城へ行儀見習いとして上がるのは、国主の家族と知己を得、良縁に恵まれる為でもある。作法は身に付いても、この正室と知己を得るのは娘にとって有益とは言い難い。誰ぞの室となっても、奥のことを根掘り葉掘り聞かれ、毛利嫌いの夫や家臣ならば正室の回し者などと言うこともあるかもしれない。
「其方ら、苦労してはおらぬか」
 振り返らずとも彼女たちが顔を見合わせるのは分かる。表に行くるいなどは、お方様はどうであったなどと、無理矢理袖の下を入れられて要らぬことを聞かれたことがあるようだ。総てを諦観するに比べ彼女たちの心労は計り知れないだろう。
「ご安心を。この者が申す通り静かにございますが、楽を出来ておりまする」
「誰ぞが参りますと、色々と用意が大変でございますからね」
「そうか、ならばよい」
 彼女たちは婚礼前に元親が揃えた者だという。媚びもせねば揺らぐもともない、煩わしい想いをせずに済むのは正直ありがたい。この点は元親に感謝せねばならないだろう。
「そういえば各々好きな小袖は持っていったか?」
「はい、皆一つずつ頂戴致しました」
「まだ縫うておらぬものもある。朱塗りの長持に入っておる反物をまた一つ選ぶがよい。私は使わぬし他に与える気もないのでな」
「まあ、これは、ありがとう存じます」
 その言葉に偽りはなく、にはあまり物への執着がない。形あるものはいずれは塵となる、常々そう言い含められて育てられてきた。故に必要最低限あれば良いのだ。侍女たちの家とて体面を整えるだけの物はあるだろうが、その下の者らへの援助もあるだろう。衣類の整う自分より今必要なのはそちらだ。
 謝辞を込め頭を下げた侍女頭が、身を整えるとふと気づいたように言った。
「そろそろ八つ時と致しましょう」
「本日はふゃきかそば焼きだそうですよ。厨方がどちらにするか迷っているのを見ましたわ」
「もう、貴方はそんなところだけはしっかり見るのだから」
 みわを侍女頭が窘めるとへこたれないみわは横の後輩に、貴女だって見たものね? と話を振る。困る娘をみて笑うみわは鷹揚だ。
「では、我々がお持ちしますね」
「つまみ食いは許しませんよ」
「侍女頭様は酷うございます」
 などという遣り取りをしながら二人は居室の敷居を跨ぎ、厨方のある方へと跫音は遠のいていく。明朗なみわと新参ゆえにあどけないるいが去り、ようやっと静かになりました、と言った侍女頭だったがすぐにはたとした顔になって、このままではみわが茶を入れることになりまする、と大慌てで二人を追いかけて行った。侍女頭の目から見てみわは裁縫のみならず茶の淹れ方もまだまだであるらしい。
 侍女頭まで去れば、たまにそよいでいく風と擦れ合う葉、そして遠くで花を間引く為に鳴る鋏の音だけが聞こえる。毛利に居た時にはよく聞いた音だ。兄もこの静を好んでいた。専らそれを崩すのは快活な継母と春風のような義姉だった。
 其処では二度程瞬きした。久しく余り静に縁遠かったと、その原因は考えるまでもない。
 幾何かするとその思考の肩を叩くように、ことり、と音が聞こえた。鋏でも葉の擦れる音でもないそれはみわや侍女頭を見送った敷居の先からだった。誰かいる気配もないがひどく気に掛かりゆっくりと近寄れば、其処には漆塗りの文箱が鎮座していた。
「……?」
 誰がと見回しても広縁や渡殿に人影はなく、仕方なく手に取って眺めてみたが贔屓目にみても造作が良いとは言い難い。簡素で模様の一つもないそれは愛想のない物に見える。只、文箱に結われた紐の間には「御簾中さま」と記された紙が挟まれており無関係と切り捨てるには躊躇われた。なんであろうかと紐を解き蓋を開ければ凡そ好意的とは取られない物が入っていた。
「……」
 覗いた文箱の中身は鬼灯(ほおずき)の花と根だった。鬼灯の実と根は堕胎の薬として知られ、季節柄とはいえ実や種でなく花を贈って来たのはまだ身籠らぬへの皮肉だろう。そして実よりも強い堕胎の効能のある根まで寄越して来たということ、それが何を連想させるかが分からぬはずもない。
 息を呑み、誰が贈って来たのだと眉を顰めるも誰が見てるかも分からぬ。は顔を上げて未だ外で花を間引く下女を呼び止め、下女は慌てたように傍に寄り恭しく跪いた。
「其方、これを薬師へ持って行って参れ。根は痛み止めになるであろう」
「は、はい」
「それからその花、種は取り出せるのであろうか」
「花でございますからまだ種にもなっておらぬかと」
「そうか、今は諸々足らぬ。どうせなら実を得てから送り付ければよいものを。なればこの庭先に植えてやろうに」
 かわほりを口に当て事も無げにそう言ってやった。あの謀将の妹はふてぶてしいのだ。それが家中の望みであろう。気弱な姿など、あの男に見せたのはそう、気の迷いなのだ。
 下女がお預かり致します、と差し出した手に文箱を置いてはそのまま踵を返そうとする。すると害心にも似た声音が響く。
「お方様は相変わらず面の皮が厚うございますな」
 女子とは言い難い低い声り振り返りまじまじと見ればそこに見覚えのあるぎろりとした眸があった。それは下女の姿に身を窶せど隠し切れない、いつだかに世良衆だと偽って近づいたあの忍びのものだ。
「其方か。お前の雇主は頭が足らぬな、こんなものを送り付ける暇があるならいっそここで刺せば早いものを」
「このような慇懃無礼、誰だか問い詰めようとは思われませんか?」
「そうして何になる」
「これは否、元親様ならすぐにお動きになられましょう」
「そしてまた次の其方らが出る、それだけのこと。毛利は恨みを買いすぎた。だから刺せばよいと申した。大火は起ころうがすぐに終わるぞ」
 そう言い置いて背を向けて部屋の中へ入ろうとすると下女、否忍びは声を上げて笑った。
「本当に面の皮の厚い御方だ。一つ教えて差し上げましょう。お分かりの通り、この御殿には忍びがやすやすと入ることが出来る。今のところこの私の手の者のみようですが……お気を付けなされ」
 言うや否や風が一陣抜け、忍びの身形は消えていた。
「砂煙をまき散らさずに消えたのは褒めてやるべきか」
 などと嘯くも一歩一歩と奥へ下がり座り込めば途端に汗が噴き出す。なのにこの背を這う寒気は何なのだろうか。我が身を掻き抱き止まらぬ震えに動揺は益々積もる。
 何時ぞや肩衣を身に着けた家臣共の身籠れば突き落とすと言ったあの言葉と鬼灯を送り付けてきた意図、絶対に産ませぬ、生かしておかぬ、そんな怨嗟が牙を剥いている。このまま捨て置くべきではない。だが芽を摘んだとてどうなるのか。果たして元親は本当に動いてくれるのだろうか。元親とて家中を二つに割ることなど出来はしないのだ。
 駄目だ、駄目だ、如何すればいいのだ。

 結局、はみわの持って来たそば焼きの味も分からぬまま夜を迎えた。何処かぎこちない正室に、遅くなり食欲が失せたのだろうかと皆首を傾げたが聞いたところで答えるでないことも知っている。湯を浴び、髪を梳かれていくつ時間が経っただろうか。暗がりに火が灯り、侍女頭が元親の来訪を伝える声が聞こえた。彼はいつも通り大股で歩き侍女や近侍に二三話しかけての居室に踏み入るのだ。
「よう」
「今宵は遅いな」
「まあよ、色々あってな。あんたも顔色が悪ィ」
「此方も色々よ」
 そんな会話をしながら彼はさっさと衣裳を脱いで白小袖姿になると衣裳を畳むの手を引いて褥へと沈む。その聊か性急な為し方に、どうしたと問えば元親は、俺もたまには人肌が恋しいんだよ、の首に吸い付いてきた。
「……ふ、」
「なんだ、今日は啼いてくれんのかい?」
 喉を鳴らすように笑う元親は手を止める様子もない。
「抜かせ……!」
 蹂躙を止めぬ夫の手に抗ってみても勝てる術などない。腹立たしいが噛みついてやる気も起らず、むしろその手が離れるのが厭わしい。このままでは駄目だ、これではいずれ孕んでしまう、脳裏では鬼灯と家臣らの言葉が何度も木霊して警鐘をならすのに今この身は鬼に食われたかった。
 黒方の香と熱に浮かされながらは何もかもが千々に乱れる。孕んだらどうすればいい? 孕まぬにはどうすればいい? 知れたこと、この男を拒絶すればいい。なのに何故こんなにも離れ難いのか。莫迦な、駒が何を言うのだ。
 愚かしい浅知恵に惑乱されながらは元親の夜着を握る。元親は珍しく握り返してきた妻に驚いたようだがやはり彼もまた何も言わず媾合に沈むのだ。

2015.03.23

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