(十七)

 その日、元親は疲れていた。否、正確にはもっと前からだ。

 雨も雪も少ない瀬戸内は春を迎えて一層船の行き来が盛んになっていた。山海珍味から、北の砂金、九州を経由して唐物や異国の名物にはじまり南洋の鮫皮を使った工芸品など、これらは長曾我部の領国運営にとって欠かせぬものだ。故に陸に在っても海への関心は失せることはない。昨今、その海上で聊か厄介なことが起こっていた。
「アニキ、どうやらまた」
「ったく面倒くせえったらありゃしねえぜ」
「毛利の野郎、所領がほぼ残ったってのに瀬戸内の海も引く気がねえってことか」
「彼方も家臣が多い故、死活問題なんでしょうね。忍衆の報によれば近頃は徳川殿に銀山を狙われているそうで」
「まー、家康としちゃ資金源を押さえておかないと何されるか分かったもんじゃねえからな」
「石見の銀は豊富ですからね」
「小競り合いもまだないようだが、あの照日の大鏡みたいなものをちらつかせてきたら」
「分が悪いな。彼方は航行の為の只の鏡と言えば済むが、此方はれっきとした武具で対応するしかない」
 九州や大陸との交易、その行き来に関しては商人からは帆別銭というものを徴収し長曾我部が警護し航行の安全を守っているのだが、一部地域で毛利に組する水軍からの嫌がらせがあり、交易が滞る事態が何件が起こっている。下っ端の出過ぎた行為なのか、それとも毛利元就本人からの差し金なのか定かではないが、毛利を嫌う長曾我部家中からはこれはあの謀将の策謀であろうとの見解が強く、一向に穏やかにならぬ瀬戸の海に親貞などは関東の介入があってはと危惧してならない。
姫様を送り込む一方で船舶の妨害など、我らがそれで油断するとでも思うてか」
「落ち着け、まだ証拠もない」
「しかし」
「幸いにも死者も出ていない。下手に騒ぎ立てて徳川殿の信を失うのも上策とはいえない」
 激昂する家臣を親貞が制すものの皆収まる様子は皆無だ。無理もない、四国襲撃の痛手は大きく恨みを消すには時が浅すぎる。言い足りぬ家臣の意をくみ取る形で今度は親泰が口火を切った。
「だがよぅ親貞のアニキ、このまま放置じゃ野郎共の鬱積は止まらないぜ。暴発したらどうすんだよ」
「今は我慢の時、だよ。国力が戻っていない今、徳川殿の不興を買うようなことはしてはいけない。いざ毛利と戦となった時に共倒れを狙われたらどうする」
「……おい親貞、家康がそれをすると?」
「アニキ、徳川殿は最早昔の徳川殿ではありません。清濁併呑であるからこそ天下人、御心と行動は別物です。故に豊臣に弓引き石田殿と敵対なさいました。毛利との諍いは、毛利と長曾我部双方だけの問題ではありません。太平となった後に小競り合いを起こし統治に能わずと転封改易にでもなれば」
「親貞様」
「徳川殿だけではない。政を見始めた譜代家臣とて主君同士が懇意なだけの国より、盲進的に徳川の言を聞く国の方が遙かに都合が良い」
「しかしっ! 毛利をこのままにするなど我らはっ!!」
 頭で理解しても感情はそうはいかない、今まさに噛みつく家臣などはそうなのであろう。元親は身を持って知っている。激情のまま動いてあわや友を無実の罪で葬ろうとしたあの愚かさを。
「……分かった」
「元親様っ!!」
「確かに今は内政の強化が重要だ。野郎共にはこう伝えろ。暫くは息を潜めて様子を伺え、だが鬼はこのままにゃしねえ。忍び難きを忍び国力を得た暁にはあの日輪を射落とすってな」
「ははっ」
 そうまで言われれば家臣としては首を垂れる他はない。彼が納得したかは分からないし、元親自身国力の回復したとて毛利と戦端を開けるかと聞かれれば否だ。もうすでに勝手に戦端を開くことは禁じられているし、もしそうなるならすぐに家康が乗り込んでくるだろう。
 全く陸は煩わしいと思う。海に出れば気の良い野郎共と思うさま海神(わだつみ)に身を任せることが出来るものを。其処まで考えて元親は首を振った。今までそうしてきたが故にそのツケが回ってきているのだ、そう思い直したその時、広縁ではなく庭先に慌ただしく乱入する者が現れ周囲は俄かにどよめき立つ。
「ア、アニキー!!」
「不作法者めっ! 評定の場であるぞ!」
「す、すいやせんっ! でも火急の用で!!」
 それは元親と船に乗り寝食を共にした野郎共の一人だ。からくりと銃器の扱いに長ける男だが評定に来ることのない人間が何を慌てふためいてこの場に来たのか、元親は広縁と部屋の間に在る敷居に腰かけて、おい、どうしたよ? と問うた。男が齎したのは予想以上に元親の頭をかち割るような報告だった。
「アニキ一大事です! 上関近くを航行中の船が暁丸らしきものを見たとっ」
「はぁ?!」
「なっ……」
「アニキっ!」
 親貞や親泰、そして先程まで応酬を繰り広げていた家臣らも総じて目を丸くした。暁丸は各からくり兵器の中で最も新しく海砦と並んで長曾我部の主力と言っていい。それが上関、毛利の領内にあるなどと耳にして平静でいられるはずもない。
 皆の動揺を打ち消すように今度は親貞が進み出て注意深く仔細を問いだたし始めた。
「確かなのか?」
「へいっ!宗田節を積んだ船の護衛に就いていた新三郎からの報告っす」
「ほう」
「うちの暁丸が盗まれたって話じゃねえよな」
「そりゃもう! 聞いて確認しやしたがちゃんと海砦の中にありやした」
「てぇことはだ、暁丸に関する情報が流れて新たに作られたってことだが」
「しかしながら海砦に賊が入ったという話も書冊が紛失したと言う話も聞いておりません」
「だなぁ」
「もしや……」
 元親が眉を顰めつつ腕を組むと、家臣の一人がはたと気づいたように半跏趺坐の姿勢から片手を着き神妙な顔付きで陳ずる。
「もしや姫様ではありますまいな」
「あ?」
「海砦に賊が入った形跡もなければ書冊もある、それならば何者かか手引きし図面を書き写して毛利に流したと考えるのが妥当でございましょう。姫様の御力添えがあれば砦に入ることなど造作も無き事」
「おい」
 これには流石の親泰も不快感を露わにした。元親に憚ることなく真っ先に主君の正室を疑えとはどういうことか、加えて今は毛利を警戒し雇用も極僅か、海砦の出入りも限られた者だけに留めている。いくらの口添えがあろうと新参者が海砦に出入りする環境にはなっていない。それをこの家臣らが知らぬはずはないのだ。
「盗まれたって限定するのは短慮だろ。んなもん毛利との戦で散々暁丸やら出してんだぜ? 四国襲撃もそうだし当然不本意ながら捕虜になってる奴らも居る。拷問の一つでもありゃそいつらから暁丸や新兵器の構想が漏れてても不思議はねえ」
「聞けば姫様は此方に来られてすぐさまからくりに関する金子を削ったというではありませんか。これは毛利が新しき兵器を揃える間此方が何も出来ぬよう差配したとは考えられませんか?」
「いい加減にしろ! アニキの前で言うに事欠いて義姉上を唾罵するか!」
「ち、親泰様」
 激昂したのは親泰だ。家中の大半は反毛利だ、親泰はその急先鋒と言っていい。その親泰から罵倒されるとは思わなかったのか家臣周辺は怯む。重苦しいな空気の中、それまで口を噤み様子を窺っていた谷忠澄が、此処は某にお預けを、と割って出、其方は言い過ぎだと家臣を窘めた。
 元親は眉を顰めたまま言葉を発することはなく、親泰からは怒気が消えない。その様に報告に来た者は生唾を飲み込み縮こまる。こういう時落としどころを付けるのはやはりすぐ下の弟親貞だ。
「アニキ、まずは海砦はじめ各拠点の守りを見直しましょう。それは無駄ではないはずです」
「そうだな」
「他についてはまた明日に。皆言葉には気を付けるように」
「ははっ」

 評定を終えれば皆いつも以上に足早に去っていく。元親は弟たちと忠澄を連れ立ち書院に下がると盛大に溜息を吐いていた。近侍が運んで来た茶を手に取り親貞も忠澄も、然も在りなんと労わずにはいられない。
「ったくよ、野郎共の血の気が多いだなんだと言っておきながらあいつらこそ冷静のれの字もねえじゃねえか」
「誠に」
「あいつらのせいで結局なんも決まんなかったし、てめえらこそが足引っ張ってって分かんねえのかねぇ」
「アニキはよく堪えられたと思います」
 元親は、だろ? と口の端を釣り上げ茶を呷る。口に広がるのは先日摘まれたばかりの新茶特有の爽やかな味と香りだ。空になった湯呑の中を眺める元親に親貞は笑み、若干の意地悪さを含んで弟に声を掛けた。
「親泰」
「なんだよ」
「お前が義姉上を庇うとは思わなかったよ」
「そりゃあいつの言い分がいちゃもんすぎてよ」
「まあね、もう一つ。アニキの前で義姉上を貶すなと怒ってたけれどお前も以前好きになれそうにないってアニキに言っていたよね」
「……」
 憮然の次は困惑を含んで押し黙る親泰に元親は吹き出した。苛めんな、と窘めると親貞はにこやかなままだ。
「愛想はねえが裏でこそこそやる女じゃねえ。もしそうなら今頃侍女が何かしら言いに来てるさ。まあ、それがあの野郎とは決定的に違うってことだ。――忠澄」
「はっ」
「ちっとばかし上関の様子を探ってくれ。それから福原のじいさんへの書状も慎重にな」
「心得まして」
「うし、んじゃ行くか」
「義姉上のところですか?」
「ああ、最近様子がおかしいんだよ、評定じゃ口に出さなかったがな。……お前らんな顔すんな」
「申し訳ありません」
「なんつーかずっと気鬱な感じなんだよ。今までなら威嚇しまくる猫みてえだったのに大人しくなっちまって侍女たちが心配してんだわ」
「左様ですか」
 そう答えて暫し考え込む親貞と忠澄を尻目に、親泰のみが、月の障りじゃね? と答えて直ぐ上の兄から容赦ない一撃が飛ぶ。伸びる親泰に、お前はよう……と呆れと憐れみを含みながら元親は広縁へと出て行った。

 元親は疲れていた。毛利から書状が来た頃から様子のおかしいと海での揉め事。家臣らは過激で柔らかい弟たちでさえの機微に異変があれば何か含むところがあるのではという顔をする。どちらも心痛の種だが、傍にある嫋やかな手は握ってやらねば消えてしまいそうで、否、握ったから消えるのだろうか。ともかくその在り処が気に掛かり今宵もの許を訪れるのだ。

2015.03.15

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