(十六)
その夜、菖蒲や梅紫色の単衣を畳む正室の姿を見とめた西海の鬼は上機嫌で居室に足を踏み入れた。
「お、仕上がったのか」
「もそっと静かに参れ」
「へいへい、昨日来れなくて悪かったな」
「待ってはおらぬから安心致せ」
との軽口にも慣れたものだ。としては当初これで腹を立てて帰ってくれればとも思っていたが暖簾に腕押し、夫に響いた様子はなくただの恒例行事に成り果てた感がある。その居心地に浸ることに彼女が危惧を覚えていることを元親は知らない。
昨日元親は火急の用とのことで主殿に残り、親泰に至ってはあと一刻で日も暮れようというときに港の方まで出たようだ。格段の報告がなかったのは大した用事ではなかったのだろう、否、ひょっとしたら毛利の娘に言えぬ何かがあったのやもしれぬ。其処まで思い至っては内心埒もない、と首を振った。一抹の不安を覚えるなどと我が身は随分愚かしくなったものだ。
「どうした?」
「何もない」
「本当か?」
「何故そう思う」
「……あんたこないだからどうもしっくりこねえな」
「そのようなことはない」
「じゃあなんでそんな引き腰で俺を見るんだ?」
夫の眼に射抜かれる気がした。昨日のことなど知らぬはずの元親に総てを見透かされているようで恐ろしくなる。いつもならからくり阿呆だと言ってやるものを今日はその言葉が喉から上がってこようとはしない。兄も畿内も一目置く西海の鬼の姿がそこにあった。
「……気の乗らぬことがあっただけだ」
「そうかい。……見てもいいか?」
「かまわぬ」
会話を続けながらは下座に引いて元親に席を譲り、乱れ箱から畳んだばかりの単衣を元親の肩に掛けた。言葉は素っ気無いが、容姿、所作、仕事ぶりは室としては申し分ないが故に元親は残念でならないのだ。うん、いいな、と言いながら芙蓉の刺繍を撫でて、巧いじゃねえか、と賛辞を送った。
「ああ、そうだ。あれを」
「はっ」
「?」
元親の言葉に隣の間に控えた近侍が恭しく乱れ箱を差し出してくる。花々の蒔絵の散るの乱れ箱とは違い、七つ酢漿草や帆掛船の定紋が配されたものだ。その上にかかる手帛紗(てふくさ)を元親が外し其処に広がる品に満足気に口の端に弧を描いた。
「これは」
「あんた自分のもんは誂えてねえだろ」
「そうだが」
「まああって困るもんでもねえだろ、気に入らねえならなんかの時侍女にでも遣りゃあいい。あ、無駄遣いじゃねえぞ。俺に割り振られた金子で見繕ったんだからな」
と誇らしげに手に取ったのは小袖と細帯だ。彼曰くこの城は海に近く、夏の潮風の心地良さも慣れぬ者には纏わり付き今日のように湿度を感じさせるものなのだと言う。故に山城で育ったには暑苦しさを感じて着替えの回数も増えるだろうからと、言うなれば買い足しをした格好だ。
「あとは自分の好みの紗織りの打掛でも揃えたらいい。……なんだその顔、気に入らなかったか?」
「――いや、……頂こう」
「へっ、素直なのはいいことじゃねえか」
思いもよらぬことに呆けた感情を隠し切れなかったのか目を丸くするに元親は愉快そうに笑う。対してはそんなことに構いもせず、心遣いを寄越してきた元親と、もぞもぞと心の奥に湧く何かに苛まれるまま断らない自分に唖然とした。取り繕うように、お前は割と贈り物を寄越すのだな、と呟けば今度は元親が目を丸くした。
「そうかぁ? 俺はあんたに物を贈ったのは初めてだぜ?」
「……」
その瞬間の心に酷く掛かったのは宴の日に渡されたかわほりに乗せられた花冠だった。なんと埒も無いことを、と失笑したくなったが一方で胸間に去来する想いがある。動揺と同時にこれでは駄目だという危機感が襲い来て、口からは何も伴わぬ言葉が漏れ出でた。
「私は駒故、そのように、気遣わぬでも良いのに」
そうだ、何度も言い聞かせた。我らは駒なのだ。気を許せば付け入られ足許を掬われる。情を抜いて冷静に物事を見定めるからこそ国は安定するのだ。なのに、我知らず衿先を握り締める我が身が如何したことか。
「あんた……」
何時もの元親ならここで追及は終わる。そんなこと言うもんじゃねえと諭し、居心地の悪くなったが逃げるのだ。たまに捉えられ縫い付けられるのだが。
「――毎度毎度よ……! 駒、駒、駒っ、あんたは人なんだぜ」
「いきなりなんだ」
の手首の握る元親が侍女と近侍に下がれと言うのを見て、ああ今宵はこの為様か、と諦観した。予想通りどうやら今宵は激情のまま組み敷かれるらしい。それでいいと思う。追及がそこで終わり毛利への鬱憤も外に向かないのなら。
だが今日の元親は違った。押し倒した室の両手首をを片手で軽々と頭上に打ち付け、もう片方の手は逃がさぬとばかりにの頬に添えられた。外すことの出来ない視線に息を呑む。
「あんた気づいてねえだろ? 駒って言う度に、あんたは自分に言い聞かせるみてえな顔してんだぜ」
「……っ、なに、……」
「もうしんどいんだろ?」
「知った口をっ……!」
「あんたにゃどうしたら血が通う? いやもう通ってるはずだ。何をそんなに頑なに逃げる」
それに喧しいっ、と首を振るの双眸は留まる事を知らぬ細氷のように定まらない。時としてそれが哀れにも思えるが、元親としては、肩に単衣を掛けて来た気遣いが駒の仕事だからなどという言葉で片付けたくはない。彼女の中には確かに温かい血が流れ、女性らしい優しさがあるのだ。
「人に戻れ、」
「――っ!」
「人に戻れよ」
「は……っ」
瞬間、稲光が走り、同時にの肩が震えて顔は酷く動揺するのを見て取った。眸の奥に言葉にも霹靂にも心底怯えた光が見え、それが元親には怪訝で仕方がない。なぜ彼女がこんなに恐れ戦くのかが分からない。
「」
「……は、はなせ……っ」
次に雷鳴が響き、の花唇から、ひ、と悲鳴が漏れ緩む力に元親は益々驚いた。
「?」
「いや、っ」
その声音が虚飾などではないことを悟ってか細い手首の拘束を解くと同時に身を起こし、の身体を抱き上げた。先程まで拒絶していたはずの妻は頼りなげに夫の胸に頭を置いて動こうとはしない。柳髪に触れ背を撫でれば僅かな震えが見て取れ、なんだあんた、雷が怖いのか、などという軽口を言うにはその姿はあまりにも儚く佳として同時に切なさが入り交じる。
「悪かった」
元親がそう口にするとはふんと鼻を鳴らしもせず小さく首を振った。そしてやはり離れず元親に身体を預けたままで、鬼は真綿を包むように抱きしめることにした。それ以外思いつかなかったのだ。
は何に対しても慄いていた。元親の言葉にも、雷鳴にも、あろうことか縋るように元親から離れない自分にも。脳裏を掠める記憶が厭わしく不安を掻き立てて苦しいのだ。昨日誓ったあの言葉は何だったのだ、揺れに揺れ、離れなければならぬのにこの熱から遠ざかりたくない。
腕を握られたことなど幾度もある。なのにあの雷鳴が思い出したくないものを掘り起こしてきた。
生ませればよいという遠い昔の聲と、生ませてなるものかという先頃の嫌悪に満ちた聲。
ああこのわずらわしさから逃れるにはこの男から離れるのが一番なのだ。否否、それが出来ぬから駒と生きると決めたのに。頼む、揺さぶってくれるな。離れろ、離れろ、もう名を呼ばないで欲しい、心配げに撫でないで欲しい、離れなくては、ああ、もう何も考えたくはない。
暗雲低迷は、なおも続く。