(十五)
翌日になればの態度は元に戻っていた。いつも通りの時間に起き、まだ眠いと転がる元親に親貞殿を呼ぶと脅し、好き嫌いなく朝餉を食した後書冊を捲る正室の姿に周囲は一時的に加減が悪かっただけだろうと胸を撫で下ろし、それから半月ばかり時を経た。
しかしながらその間、の心中は人知れず嵐が巻き起こり気鬱は日を追うごとに増していた。大事にしてはと見逃したあの忍びは本当に長曾我部家中の者だったのか、同日届いたという祖父からの時宜の良すぎる書状が実は発破をかける為で、――毛利の兄がもしそれを望んでいるのが真実なら瀬戸内はどうなるのか。否、あれが予想通り長曾我部家中から出た者ならそれはそれで危惧すべきことなのだ。
嵐はこれから起こるのか、ただ強風が吹いたいだけなのか未だ量りかねるの視界に先には珍しく霧が広がっている。ああ安芸で見た山霧はどうであったか、思い出そうとすれば切なく胸が痛む。――何を悩むことがある、我が身は駒であるのに。
春を迎え長持の中身を入れ替え終えてもなおも奥御殿は針仕事に忙しい。袷長着から今度は単衣の用意もせねばならず何着もあるこの仕事は女たちを疲れさせてやまない。ことに城勤めの侍女となると、割り振られた仕事以外にも、同じく城勤めの家臣に一枚二枚と頼まれたりするものだから、終わる頃には首と肩の痛みに悩まされるのだ。
本日はもまた届いた反物を裁ち、一から元親の単衣を縫った。昨年のものの殆どは四国襲撃で家を焼かれた者や、関ヶ原の恩賞の一部に回してしまったのだという。襲撃に際し、城の金蔵などは無事だったそうだが、それでも国主の持ち物を回さなければならない程物品に事欠く事態に陥ったのだろう。侍女頭に委細を耳打ちされたが、付きの侍女たちはそれを嫌みにしたりしない。むしろ笑いあってこの仕事に従事することからも気にしていない振りをしている。
一針一針縫いながらふと手を止めると自分の周りに広がるのは京紫や二藍、藤紫、菖蒲色の海だ。元親はとかくこの色合いを好みよく似合っていると思う。どちらかと言えば白藍や白群、撫子などの淡い色を纏うはいつもこの鮮やかな色に飲み込まれている。伝承の若い娘を食らう鬼と、夜な夜なを食らう元親は大して変わらない気がする。西海の鬼、というのは言い得て妙だと思えた。
針仕事は俄かに天気の悪くなった昼を過ぎても終わらず、手や足が痺れた侍女たちに、今日は此処まで、皆ゆるりとしてよい、と言い置きは奥御殿から少し離れた数寄屋へと引き籠った。未だ憂鬱の種は消えないが、自身で茶を点てもてなす者のいないこの場でゆっくりと飲み干せば不思議と安堵が広がった。堺の豪商が考案したという狭小の空間は現実とは別の世界を想像させてくれる。侘び寂とはこのような時にこそ必要なのかもしれない。
茶碗を置き、暫く床の間に生けられた花を眺めて、持って来た布と針を手に取る。元親の衣裳は数枚仕上げたがなんとなくもう一枚仕上げてみたくなったのだ。自室で縫えば、わたくし共が致します、と侍女が手を出すのは目に見えていたから、誰も寄せ付けぬこの数寄屋は格好の場所だった。数寄屋の創案者が知ればさぞ立腹する使い方であろう。
「しかしながら元親様にも困ったものだ」
雄々しいのに衣裳の柄は華やかな元親が好みそうな花を一つ縫い始めていると、庵の外からそんな声がしてきた。はたと思わず手を止めて耳を澄ますと衣擦れと神経質そうな声は忌々し気に言霊を連ねていく。
「毛利の娘など傍にお置き下さいますなとあれ程申したに」
「元親様のご性分故無下にはなさるまいと思うておったがあれではすっかり骨抜きではないか」
「所詮我らの溜飲などお分かり下さらぬか」
「せめて通わぬか奥のことは側室にでもさせればいいものを」
「その側室がおらぬでは……、先日も要らぬと仰せられて」
「ええい、このままでは毛利に内情が筒抜けぞ」
「それにしてもお方様のふてぶてしさよ。大方家中のことなどせせら笑うて毛利に流しておるだろうよ」
「それよそれ、何か尻尾は掴めたか」
「未だ、侍女が文遣いをして居る気配もなければ、忍びをあててみても眉ひとつ動かしもせぬ」
「ふん、肝の座った女子よな」
聞けば聞く程、好意とは程遠い会話だ。だが気になることを言う。それを鵜呑みにするのならばこの壁の先に居る者らが例の忍びを寄越したということだ。我が身に敵意のある者が居ることは知っているし、乱世の常ならばそれは詮方なきこと。僅かに音を立てる心の臓にそう言い聞かせて、せめて対者の面を拝んでやろうと立ち上がり、静かに窓に手を掛け覗き見るその先に居たのは肩衣を付けた男たちが三人。衣裳から元親に近しい荒くれではなく、頭の固い古参の譜代だろうと想像がついた。陰湿さと堅苦しさを嫌う元親には彼らの諫言は無碍に扱われたに違いない。
「このままではお方様に御子が出来るのも時間の問題ぞ」
「男子など生まれてしもうたら長曾我部はまた毛利に蹂躙される」
「否、否! そのようなことさせはせぬ」
「したがどんな傳役を付けても奥で育てられる御子はどうなるやら」
男たちはそれぞれに眉を顰め、時に首を振り、糾弾にと忙しい。然も在りなんと小さく息を吐き、また針を再開しようかと窓から視線を外したその時、それこそ家中の者らの脳を叩き目を剥かせるような噺が甲高い声と共に飛び込んできた。
「生ませてなるものか!!」
「……!? お、御許は何を……」
「生ませぬと申した! もし、お方様が身籠るようなことがあったなら、突き落としてでもっ」
「これ!! 滅多なことを申すでない!」
「お方様がお生みになるは元親様の御子ぞ……っ」
「毛利の血の入った赤子など元親様の御子に非ずだ!」
「内蔵助殿!! こればかりは控えられよ!」
「御許らこそその性根の定まらぬ顔はなんだ。毛利の娘など認めぬ故色々探りを入れたのではなかったか!」
「それはあくまでお方様の疑念が晴れぬが故、我らが殿の御子を弑すなど見当違いも甚だしい!」
「皆声が高い! 双方落ち着かれよ!」
男たちの中で一番声の低い男が制するや否や、陰っていた空が天鼓を呼び寄せて、皆互いの様子を窺いながら蜘蛛の子を散らすが如く四散していった。風流の為の玉砂利の音も、今は霹靂と足音と相まって只の不協和音だ。
「好きに致せばよい……」
そう言って彼女は泣きもせず怒りもせず、ただ一度単衣の刺繍を撫でて目を閉じ、そしてまた深く溜息を吐いた。動じることはないそのような関係の家に嫁いできたのは分かりきったこと。
「……頭の目出度いあの男にはあのくらいの家臣がいて丁度良いのよ」
今日は言うまい、会いとうないなどと。今宵は見せまい、心弱く寄りかかる姿などと。駒が何かに縋るなど滑稽なのだ。
心に強く叩きつけて再び針を動かす。桔梗でも縫うかと思ったが元親は微妙な顔をして、変な野郎を思い出すから遠慮する、と言った。なら芙蓉にしてやる、と返すと、ああ、と返して口の端を上にあげた。何故だかその表情が思い出されて肝の辺りが締め付けられる。
「――っ!」
その痛みは指先にも訪れた。覚束ない手は布ではなく指先を狙い、針で刺してしまったのだ。傷口を見れば小さな赤い丸が一つ盛り上がって、それが知らぬ存ぜぬでは済まさないとでも言うように見え、は思わず血が付くのも忘れて開いた掌をぎゅっと握りしめる。
微かに漂っていた暗雲低迷、それが今天と同じように牙を剥こうとしているのだ。
春驟雨の続く翌日も奥御殿の女たちは正室の指示の下、一か所に集まって針仕事をした。元親のものや頼まれたものの布が余れば幾らか分けて良いとが言った為か、皆性根を据えて一針一針縫い進めていく。とはいえ縫うばかりでは眠気も誘われ、否応なく誰彼と口も動くのだ。
針仕事の苦手なみわなどは他の者より数枚遅れ、やっと二枚縫えたと喜び、侍女頭に褒められると同時に絹を扱わせるのはまだまだだとからかわれた。みわは、皆さまいじわる、わたくしは麻で十分だって本人が一番よく分かっております、と少しだけ頬を膨らませてみて皆はまた笑った。侍女みわの手にあるのは元親のものではなく家中に支給するものの一つだ。残念ながら彼女が主君の反物に触れることはまだまだ遠い未来のことだろう。
侍女頭はパンパンと手を鳴らし緩む侍女たちを引き締める。
「さあさあ、まだまだ頑張って貰わなければいけませんよ。明日にはまたいくつか布が届きますからね。奥御殿にも商人が出入りしますから忙しくなりますよ」
「では明日はてんてこ舞いにございますね。あ、」
「なんです?」
「出入りと言えば……、先頃よりよう奥御殿を覗いておる者がおるのです」
「まあなんと」
「僭越ながらわたくしも。ご家中の方や見慣れぬ男共が何度となく出入り口や建物の隙間から様子を窺っておるのを見ましたわ」
そう口にするのは新参の年若い侍女らだ。付きと言っても常にの傍に侍るのは侍女頭やかえ、みわなど数年の経験のある者で、新参の彼女らは小間使いや外との連絡などが多い。表や外と行き来する彼女ら故に気付いた違和感であったのだろう。
「そんな不躾な者がいるの?」
「はい、かえ様」
「いやですわ、やっと姦しい者らが別のとこに移動したというのに。大体近づくことすら禁じられている奥御殿への入口にあからさまに姿を見せるなんてお方様を軽んじている証拠ですわ」
「そうね」
かえやみわは大変不愉快そうに表情を曇らせ、侍女頭は僅かな懸念が見え隠れした正室の気色を読み取って、これ、と皆を窘める。侍女頭にそれ以上気取られるのを嫌ったはで針の手を止めもせず関心がないように言って見せた。
「奥に何ぞ想い人でもおるのであろうか。男共は暇よな、主君があれで緩んでおる。今宵は説教に決まったな」
「まあお方様、そんな悠長な」
「奥の者らが不快に思うなら徹底的にやればよい。ただ後々の面倒は困る故其方親貞殿辺りに話を通しておくがよかろう」
親貞ならば個人の感情に囚われずそれなりの手を打つだろう。侍女頭はなおも不安気にを見たが、私も嫁入り前の其方らを預かっておる故な、と続けて昨日の針傷が思い出したように疼くのを自覚しながらまた一つ針を通すのだった。