(十四)

 表が騒がしくなって一時ほど時を得たがの気鬱は止むことなくずっと脇息に凭れている。侍女頭が怪訝そうに茶菓を進めるが麦湯のみを飲んで、他は侍女や厨で食せと下げさせてしまう。は食が細い方ではあるが好き嫌いに煩い女主人ではないし出されたものは大抵口にするので、これはいよいよお加減が悪いのだ、薬師を呼ばねばならぬやもしれぬと御付の者たちは俄かに落ち着かない。また何時もなら、そのような顔で控えられては気が散る、と言うのだがそれにすら気が回らぬ様子で只々物憂げに伏せるので益々皆の心配は増すのだ。
 麦湯ももうよい、と下げさせられた湯呑を手に侍女頭は一旦部屋の外に出た。一体どうなさったのであろう、そう思いながら一度厨への道を行く。今日は俄かに物事が運ばない。かえやみわも少し御用が、と下がってしまったし新参のるいでは何事も心許無い。殿がお外に行かれて気が緩んでいるのだろうか、もうご帰城されたのだからしっかり致せと皆の気を引き絞めなければなるまいと深く息を吐く。
 決意も新たに進みゆけば表側から数人の足音が聞こえる。誰のものかすぐに分かったが今日はお成りではなかったはずなのにと思いながら広縁の端で膝をついた。
「殿、お戻り為されませ」
「おう、の具合はどうだい?」
「はい、お昼頃より俄かに気鬱なご様子で臥せっておられます」
「薬師には見せたか?」
「それが大事ないと仰って誰も寄せ付けになりませぬ」
「そうかい。まあ、見てくらァ」
 あ、殿、と制止しようにも彼は先を行く。来訪を遠慮したいとの申し出はかえから表の近侍に伝えられたはずだ。であるのに此処に居るということは自分の制止も聞く気はないのだろう。面倒見の良い主君の性分からすれば仕方のないことだと頷いて、そしてふと思う。以前は姫様は殿をどう思っているのかと考えたが、逆に殿は姫様のことをどう思っていらっしゃるだろうかと。彼は何事にも懐広く気の良い主君だ。反毛利派からはあまりご正室の許へ通われませぬようと厳しい諫言があるのも知っている。それ故に敵対国から嫁いできた姫を一層哀れに思ってお通いなだけではないだろうか。思い返せば主君がご正室様に愛を囁くところを聞いたことがない。
 もし自分の懸念がそうなら、と考えて侍女頭は首を振る。それは只の疑問で推測の域を出ない。姫の傍に仕える故に自身が姫贔屓になっている感は否めなかったし、当人同士が口にしないことを彼是詮索するのは侍女として逸脱している。只――
 只、もし義務だけであの優しい言葉で包むならそれは拷問だ、そう思い至れば、私のことは捨て置け、と言う姫の言葉がひどく脳裏を駆け巡るのだった。

 不愉快なだけの来訪者が去ってより数刻、は何度も溜息を吐いていた。今日はあしらうことが出来たがこれからは巧妙になるかもしれぬ。それで自分が死ぬのはいい、が、それが引き金となってまた戦が起こったらどうするのだ。今は長曾我部も毛利も戦をしたところで何の利もない。むしろ戦を起こした責任を取らされて所領没収にもなりかねないのに。
 人の感情というのは厄介だと思う。あの忍びもどきを寄越した者は毛利憎しと思うあまり冷静な判断も出来ないのだ。感情のまま生きるのは眩しい、だがやはり権力層に位置するなら兄のように感情を捨てることもまた必要なのだ。
 止めどなく思考を巡らせていれば、聞きなれた跫音がして眉を顰めつつ其方を向いた。幾何の時も経たず障子の先に現れたのは予想通りの男、相も変わらず銀の髪が眩しく不遜な目許が癇に障る。
「よう、戻ったぜ」
「怪我がなくて何よりだ、と言うとでも思ったか阿呆め」
 妻の皮肉など物ともせず、威勢がいいねぇ、と喉の奥を鳴らすように笑った元親は脇息に凭れ頭も垂れぬに構わずその横に来て腰を下ろした。
「流石に朝早くから出ると眠ィわ」
「知らぬ、来るなと言うたに毎度毎度、貴様の耳は風穴でも開いておるのか」
「あーサヤカに開けられたかもしんねえな」
「雑賀の女棟梁め、もっと蜂の巣にしてやればよかったのだ」
「ほんとひっでえ」
 を挟んで脇息とは反対側に座る元親には些か背を向ける格好になっている。ふん、と首を反らすと益々つれないねぇ、と元親はククと笑うのだ。
「で、飯は食ったか?」
「いや、今日は気が向かぬ」
「顔色は……良いとは言えねえな。――なああんた、褥の用意をしてくれ」
「心得ました」
「余計な世話は要らぬ」
「んな可愛くねえ反応するなよ。侍女が困んだろ?」
「貴様が口火を切ったのではないか」
 障子のすぐ傍に控える侍女は主君とその妻の発言に振り回される立場であるのだがにこにことして慌てる様子もない。大抵が折れるのを知っているからだ。男であるが故に時として元親は強引で、女であるが故かは受け入れている。元親はその人当たりの良さから何ら気にされることはないがその割を食うが二、三悪態を吐くのは致し方ないのかもしれない。
「いいじゃねーか、俺も眠ィっていったろ? ついでだついで」
「……言っておくが私は今相当気分が悪い。貴様の小袖の中に吐いても文句を言うでないぞ」
「いいぜー、そんくらいなら。病人のすることなんざかわほりが飛んでくるよりは可愛いもんだぜ」
「つまらぬ」
「へっ」
 予想通り、はあ、と深く息を吐いて引くのはやはりの方だ。けんもほろろだった当初とは少し違う変化である。
 了承と受け取った侍女は頭を下げると互いに目配せをして寝所へと動く。手慣れた侍女たちの手際は良くそれ程時を得ずに褥が出来上がれば、行くか、と元親はを抱き上げようとし、は、着替えておらぬ、と眉を顰めた。元親はといえば終始鷹揚で、後で打掛だけ脱いどけ、と聞く様子もない。
 鬼の思うように運ぶのは癪だったは自力で立ち上がり、ふん、と鼻を鳴らさんばかりに打掛の裾を引いて寝所に向かうのだが、その後ろでやれやれと頭を掻く元親にはまだまだ余裕が垣間見えそれがまた癇に障る。
「よっと」
「!」
 それどころか今日の鬼は手を緩める気はないらしい。まったく、と言いたげに寝所へ足を一歩踏み入れたはずのの視界は回転し、あれよと打掛を剥がされて褥の中に沈まされたのだ。思わず漏れそうになる悲鳴をかみ殺して目を瞬けばすっかり元親の腕の中で寝転がっていた。
「貴様……っ」
「寝よーぜ?」
「吐いてやるわ」
「いいって言ったろ」
「ふん」
 元親は、可愛くねーの、と笑って衾を掛けてくる。それが心ならずも温かくては怯んでしまうのだ。ああもうこの男は、と彼女が首を振るのを彼は気づいているだろうか。
「そういや、今日福原のじーさんから書状が来たぜ?」
「……そうか」
「あんたのことすげー心配してた。見るか?」
「いい……」
 妻が関心を示さないのは何時ものこと。胸元と柳髪に触れる指先に温かさに心地良さを覚えて、そこで元親は違和感に気付く。普段腕の中においてもそっぽを向くが今日は元親の胸に頭を預けたまま動こうとはしないのだ。具合が悪いのならばなおのこと、いつも以上に警戒心をむき出しにしかねない彼女の意外な態度だった。
、どうした?」
「……暖を取っておる」
「何でえ、寒かったのか。火桶代わりにはなるかい?」
「悪くない」
 そう言うとはゆっくりと瞼をおろし離れようとはしなかった。元親は暫く様子を窺っていたがやがて寝息が聞こえてくると頭を二、三撫でて自分も睡魔に身を任せることにしたのだった。

2015.02.16

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