(十二)
長曾我部氏の本城にある奥御殿、まして正室の前に座した男の姿はそれに似つかわしくなく質素でみすぼらしかった。だがその身形とは裏腹にぎろりとした眸、述べた名、口上は立派なもので益々警戒心を持つことになるのだ。
「姫様、御前を汚すことお許し下さい。某は元就様にお仕えする世鬼衆に連なる者にございます。本日は元就様よりのご命令をお伝えしたく罷り越しましてございまする」
「ほう? 安芸の兄が?」
「文では露見した時に姫様のお立場が危ううなる故口伝(くでん)にてお伝え申し上げまする」
「そうか」
は婚礼調度として持ってきた真新しいかわほりを二、三開き口に当てながら目を細める。それを了承だと受け取った男は小さく会釈し続けた。
「さればでござる。元就様は長曾我部の内情についての情報をお望みであられます。姫様におかれましては他国との、ことに徳川との同盟交渉事などについて逐一お知らせ頂きたく存じます。加えて折を見て某が間諜の一人を侍女として送り込みますれば、その者を使い海砦、兵器暁丸の図面を手に入れ、御国許へお送り頂きたく」
「……」
「あまりお気が進まれぬようですね」
押し黙るに男は饒舌だった。元就様が何故黙って姫様をこちらにやられたかお分かりになりましょう、との言葉から始まり、兄の賛美と安芸毛利の栄光を口にする。瀬戸内の制圧から天下をと続ける男には不愉快になってぱちりとかわほりを鳴らした。
「痴れ者め」
「これは失礼を……」
「この私を謀れると思うたか。それこそ私は謀将を間近で見、育った女子ぞ」
「は、……?」
「毛利の兄上がこの期に及んでそのようなもの欲せられぬ。兄上のお望みは中国の安芸毛利の繁栄のみ、天下など露ほどにも興味をお持ちにならぬ。もし、気が変わってそうであったとしても、徳川の目の光る今動こうとはなされぬ」
「……」
「よいか、毛利元就は期を見誤る男ではない。屈辱に耐え息を潜め日輪が昇るを待つ御方、そしてそれは私を使っては行われぬ!」
それは決して情からではない。嫁いだが揺れ動くを見越してだ。不確定を排除する兄らしい行動と言える。
「ひとつ教えてやる。此方へ嫁ぐとき兄は私に言われた。今後妹とは思わぬ、其方はもう毛利と縁切りする女だとな」
それを恨みはしない。警戒された人質の娘が外交役を買ってでるのは無理に等しい、それ故に兄はを切り捨てた。その妹から情報を欲するなど矛盾に満ちているのだ。
「毛利を滅ぼしたいのは分かるが、私を使って何かをでっち上げようとしても無駄ぞ」
「っ……」
この身はもう留まる波止場も見つからぬ浮舟だ。大海に嵐が吹けば、西海の鬼の指先ひとつで沈められる、そんな不確かな身の上なのだ。
「程度が低い、貴様の背後が誰かすら興味も湧かぬ。次に来るときはもう少し練って参れ」
「……」
それからは早かった。脱兎の如くというのは今のようなことを言うのだろう。眉間を僅かに顰め素早く身を消した男の周りに風は舞い虚しさだけがの胸を突く。残り香もないのはあの男は本当に忍びなのだろうとどこか遠くに考えながら深く深く息を吐いた。
恐らく長曾我部家中の誰かの差し金であるのは想像に難くない。毛利の出のが元親の妻でいることが余程不快なのか、毛利そのものを滅ぼしたいのか、否両方であろう。が失態を犯せば芋づる式に毛利を潰す口実が出来ると重箱の隅を突くようにを煽り引き摺り下ろそうとしているのだ。
元親に言うのも厭わしい。何か騒ぎ立てて家中を荒らそうとしているのだと言われたらそうではないという証拠もなくただ疲れるだけだ。只、所詮長曾我部の紅紫に毛利の浅緑はどちらも相容れることの出来ぬ色だと再認識するには十分で確かに何かが削がれた気がした。
視線を落とし掌にのる真新しいかわほりに花びらはない。花を散らせたあのかわほりはなんとなく使えなくなってしまったのだ。随分感傷的になったものだと鼻を鳴らしてぽつりと声が漏れた。
「味方はおらぬ、おらぬでもよい。だが、疲れるな……」
その言葉は誰の耳にも入らない。侍女にも、元親にも、安芸の元就にも。
長く城勤めをする侍女頭からこのお茶の淹れ方を教えるから覚えるように、と自分の生家では目にすることもない茶葉を差し出された侍女”かえ”は天にも昇る気持ちだった。茶葉の分量、湯の熱さ、蒸らす時間、一つ一つを注意深く聞き四度程淹れなおしたが、未熟な腕前であることは否定出来ず、お方様にお出しするにはまだね、の一言でいくつもの湯呑に揺蕩う透き通る新緑の色は日の目を見ることはなかった。それでも侍女頭に手ほどきを受け、あの薫りに包まれる時間は幸せだった。私が淹れなおすから貴女たちそれを飲んでいなさい、と淹れそこねではあるけれど碾茶を口にすることが出来たのも至福の時だった。
疲れることも多いけどそれが城勤めの醍醐味なんだわ、と思い出し口許を緩めながら、彼女はしずしずと広縁を行く。彼女は侍女頭が淹れなおした碾茶を、彼女の後ろにいる新参の侍女は主君長曾我部元親の知人が持ってきたという京菓子を手に正室姫の許へと向かうところだ。新参の後輩は先頃までお方様の素っ気無い言動に慣れぬようであったが、格段冷たい御方でもないと知ると生来の快活さを発揮し何事も卒なくこなす様になってきた。それが嬉しいとも思うし寂しいとも思うのは自分の心の中に留めて彼女の成長を喜んでやりたいところだ。
「お方様、失礼申し上げます。お茶をお持ち致しましてござりまする」
「近う」
「はい」
障子の前で口上を述べそっと足を踏み入れる。そして今一度頭を下げて茶を差し出し姫が頷く気配がしてようよう顏を上げた。侍女はそれに小さな疑念を感じやにわに主人を見る。何故だろうか一瞬消え入りそうに見えた気がしたのだ。
差し出された碾茶を口に運ぶの所作には隙が無い。この身とて城に上がる限りは其れなりの作法を叩きこまれてきたがやはり御正室様とは雲泥の差だ。気安い人ではないが見ていて惚れ惚れとするしこんな女主人に仕えることが出来るのは、人当たりは良いが明け透けな女主人に仕えるより遥かに誇らしい。
「ふむ、美味よ。其方が淹れたか?」
「恥ずかしながら私の腕ではまだまだにございまして、侍女頭様に淹れ直して頂きお持ちしました」
「そうか、いつか其方らの淹れたものも飲ませよ。励め」
「はい、精進致しましてござりまする」
そう答えてかえは主君の近侍からの言伝を思い出し、お方様、と続けた。
「うん?」
「本日、殿は早に城外に出られておられる由、故に昼餉を御取りになられておられぬようで、お戻りになり次第此方にてご一緒されたいと表から知らせが来ております」
「……今日は、会いとうないのう……」
思いがけぬ言葉に侍女らは顔を見合わせる。この御正室様は夫を阿呆だのからくり狂いだの歯に衣着せぬ物言いをする御方だが主君の来訪を拒否したことは一度としてない。主君も大概満足して表に戻る様子であることからきっと閨でもそうなのだろう。故にこの姫の言葉には驚かずにはいられないのだ。先程の違和感はやはり気のせいではない。
「では……ご気分悪しくお越しをご遠慮すると彼方にお伝え申し上げて宜しゅうございますか?」
「頼む、……ついでにあの阿呆に外に出たのなら無駄な体力は使わず休めと伝えておくれ」
「心得まして」
とはいえ、どうなさったのですか、という問いしてもが返すとは思えない。事務的なやり取りだけをして下がるかえに、同じく辞した新参の後輩は心に留めることが出来ぬのかどうなさったのでしょうね、と問うてくる。
「お顔は平素を保ってらっしゃいましたけど何かこう……憔悴なさっているみたい」
「そうね」
「ねえ、かえ様、お方様はどうして口を噤んで誰にも頼ろうとなさらないんでしょうね。心が弱くなるときは誰かに頼っていいと思うんですけど。ましてやお殿様ならきっと無碍にはなさいません」
「さあどうかしら、お方様の御心の内なんて分からないわ。お立場があれば全部自分の中で解決しなきゃならないこともあるんじゃないかしら。貴女、このこと噂話なんかで口にしちゃ駄目よ。お方様が口になさらないってことは誰にも知られたくない大事にしたくないってことなんだから」
「は、はいっ」
「まあ、貴女の疑問も分かるわ。お方様は何時も、一番頼れるはずの殿に一番隠していたい、そんな感じですものね」
止めどなく話しながら、御厨に戻る道を進んでいると少し離れた渡殿で難しい顔をした同僚みわを見つけた。どうされたのかしら、と新参の侍女が言うにかえは、ああまた何か失敗をしたのかしらと思いながら足を止め渡殿へ寄ることにしたのだった。