(十一)
色々あったものの、宴そのものは滞りなく終了した。の退出は、気後れした正室を元親が気遣った為、と吹聴し事なきを得た。こればかりは儚げな手弱女にしか見えぬと美丈夫な元親の容姿が功を奏した。また、花冠を拾う元親と酌をしたの姿もそれに一役買ったと言える。家中のの評判も、実際に見た仲睦まじい夫婦の姿に一旦は形を潜めたようだ。
親貞などは元親の口からの行動が湾曲して流れているようだという話を聞くと、アニキそれはとてもまずいことです、と言い義姉の言動が漏れぬように奥御殿の人員移動を申し出て噂好きの侍女下女などは遠くに配置換えをされたようだ。慌ただしかった奥御殿も、姦しい者らが消え、御付の侍女たちがの性格を把握するようになってからは一応に穏やかな時が流れている。
それから二月、冬の寒さはその勤めを終えたとばかりに重い腰を上げ、土の下からは若々しい芽が、大きな枝を持つ木々からは沢山の蕾がなりはじめ、季節は一気に春を迎えた。
元親との間に格段の変化はない。執務が終われば西海の鬼は妻の許へ来、抱いて朝を迎える。否、変わったことは一つある。つれなくしているのに毎夜の如く訪れる元親に、はなぜ自分を捨て置かないのだと怪訝な目で見るようになり、時としてそれをぶつける時がある。放っておけ、とが悪態を付けば、元親は逃がさぬとばかりに包み、悪ぃな、俺はあんたみたいな女を落とすのが好きなんだよ、と囁いて真綿の海に沈むのが常だった。それは勝手に抱いて勝手に去ね、と言っていた頃とは雲泥の差であったが、それでも組み敷いた一瞬見せる眸は相変わらずで溝の深さを知ることになるのだ。
今宵も元親はの居室に足を運び、少し話して寝所に入る。最近まで寝酒を呷っていたが、勧めてもが一滴も口にしないこと、酌をさせても口には出さぬが匂いを嫌そうにしていることから今では麦湯に変えた。酒精を摂取しないとなると睡魔は少し遠くへ行き、となれば話す時間も長くなる。寝そべりながら書院から持ってきた書冊をぱらぱらと捲り独りごちる。
「あー富嶽改造してぇ」
「すぐ下の弟御に言うてみよ」
「……殺されるじゃねーか」
「いっそそうなったら金蔵は一気に潤うな」
「抜かせ」
褥の傍で元親の羽織を畳むの軽口に答えながら元親は身体を起こす。素っ気無いだが彼女には珍しく会話を続けた。
「私は尼になって悠悠自適だ」
「ほー」
「というのは無理だな。安芸に戻ってまた何処ぞへ遣られるか」
「それでいいのか?」
「良し悪しを考えたことはない」
「ったくよ、だが残念ながらそれはねえから」
そして、来な、と手を差し出すと彼女はお前が来い、と返しながら元親の傍に座る。口は悪いが一連の所作は惚れ惚れするもので、毎度惜しい、と思う。好きに抱いているはずなのにそれだけで翻弄されている気がして元親は意地悪をしてやりたくなるのだ。
「んー」
「どうした?」
「なんかこう趣向を変えてえな」
「趣向?」
「あんたに誘われてみたい」
「は?」
「決めた。、俺をそそり立ててみろ」
「馬鹿か貴様」
「阿呆なんだろ? どうした? 誘ってみろよ。それとも毛利の姫さんは色事すら満足に出来ねえおぼこか?」
「あれ程抱いて私がおぼこなら貴様の手管が足らぬということだ」
「かーっ可愛くねえなー」
「女子は男次第と侍女が言っておった。私がこうなのは貴様が手懐けることも出来ぬ唐変木ということだな」
「言ったな」
そう答えると左手で妻の手首を取り、右手を腰に当てて引き寄せよろめく彼女の花唇を捉えて食んでやる。首筋に吸い付いて力の弱まる彼女を横たえると鬼の口は不敵に湾曲した。
「口が減らねえでやんの。今夜はちっと攻めたててやっか」
「はっ……! その気になったではないか」
「ハハッ、チャンは策士だねぇ。まーどっちにしても抱くつもりだったしよ?」
「勝手にしろ、喘いではやらぬ」
「よく言うぜ。結構イイ顔してんだぜ? あんた」
「死ね!」
衿に手を掛ければはやはり身構える。気付かぬ振りをして吸い付けばやがて吐息が漏れ出でて悪態をつく姿など帳消しになることを彼女は知らない。乱れた絹に散らばる柳髪と白い四肢、潤む眸と吐息を望むままに扱って夜は更けていくのだ。
「餓鬼なのか猫なのか、もちっと素直になりゃいいのによ」
情交の後、くたりとして寝入るに元親はほくそ笑みながらそう言ってやった。今宵もその言葉を知るのは月一つだ。
春の足音が聞こえ梅が咲き、次いで桜が咲く。小手毬や都忘れも蕾を付け次は我だと言わんばかりだ。華やかになる庭先に奥御殿もにわかに活気付き侍女たちの間着も明るい色が増え、外も内も男たちの目を楽しませている。
そんな中、は一人いつもと変わらず浮かぬ顔でいる。脳裏の大半を占めるのは専ら夫のことだ。難しい背景からの婚姻である。あの男自身気乗りのしない話であったと聞いていたし、つれなく拒絶していればきっと離れるだろう、人質代わりに嫁いできたようなものだからその後は御殿の奥で一生を終えるのだと思っていた。なのに。
――!
あの声が脳を揺さぶるのだ。話を真っ直ぐに聞く眸が我が身を貫くのだ。可愛くない女だと言いながらも掌を握る度に心の臓が痛むのだ。憎いくせに。毛利の女など家中の火種にしかならぬと分かっておるくせに。
いっそ試してみてもいいかもしれない。どうせ化けの皮が剥がれるだけ清々するはずだ。
銷魂にも近い心境に大きく息を吐き顔を上げる。京から美味い碾茶が届いたのだと言い淹れて参ります、と出て行った侍女がもうすぐ戻ってくる頃だ。居住まいを正して待たねばなるまい。白群の色に藤やら小手毬やら山吹を散らせた打掛の衿先を引き裾を整えて背筋を伸ばし唇を結ぶ。そうすればもう普段のの顔だ。そうして僅かに人の気配が漂ってくる。
「姫様……」
が、来訪者は侍女ではなかった。突如森閑とした室に流れ込んだのは聞き覚えのない男の声。それは天井裏というまともでない角度から響き正規の客には程遠い。否が応にも張る緊張の糸を気取られぬよう少しだけ首を動かして、誰ぞ、と言ってやった。
天井裏の来訪者は最小限の音だけを立てての前に降り立つとすぐ座り込む。刀を後ろへやるものの左足を立てたまま畏まる姿勢は何時でも刀を取ってに斬り掛かれるようにも見えた。小者のような出で立ちだが上げた名乗りには眉を顰める。それは歓迎出来るものではなかった。