(十)

 胸中に沸く激情に駆られたまま宴席を去っただが、何もバタバタと床を蹴って抜け出したのではない。顎を引きまっすぐ前を向いて、今退席するのは当初の予定通りとばかりに広縁を進んだ。他者の評価などどうでもいいがそれは意地だった。
 格段足を早めるでもないから当然すぐに侍女たちが追い付いて付き従う者も居れば先に行って諸事を整えようとする者も居る。お先を失礼致しまして、と頭を下げる侍女にはまて、と止めた。何時もぱちりと鳴らすかわほりは置いてきてしまったのだ。
「別の部屋を」
「心得ました」
 だが流石に普段の居室に戻って引きずり出されるのは御免だった。居場所などすぐにばれるだろうが拒絶している意思だけは見せてやりたい。この冷静さを失った顔も見せたくないし今はあの男の顔も見たくはないのだ。
 ならば少し離れた場所へ、と誘導されたのはの居室とは真反対にある部屋で正室の御殿のような立派な障子絵などはないが貴人が座するには問題のない部屋だった。いずれ誰彼かが入るのだろうがそれを考えるのは先送りにして、は中に入ると人払いもせずに気が抜けたように座り込んだ。
 なんと腹立たしい男であろうか。あれは老婆心か、組み敷く女への自尊心か。室としての役目は果たしているつもりだ。ならば土足で踏み入るような真似はするな。我が身は駒、信じるのは兄夫婦と育て上げてくれた継母だけ、それ以上は望まないのに。
「なんなのだ、あの男は」
 手際の良い侍女が用意した火桶がパチッと音を立てる。室内は寒さを感じる事のない温度に包まれそれが脳裏を占める夫を思い出させて何とも言えなくなる。いつもそうだ。あの男と居ると自分の価値観から引きずり降ろされそうになる。それが愚かになっていくようで只々恐ろしい。
 兄の心は義姉がほんの少しだけ解してくれた。それでいいと思う。自分はどうだろう、元親が解してくれるのだろうか。否、あの男は総てを溶かしてしまう。自分の矜持も、何もかも。あの男に言ってやりたい。その緩さこそが付け込まれるのだと、傾国に導くのだと、心凍らせることが必要なのだと。故には思うのだ。
「何も要らぬっ……」
 四半時程経ったろうか、口を吐いて出た言葉は信念に近いものにあるにもかかわらず存外震えて口惜しい。何故ここまで揺り動かされなければならぬのか、酷く心外だった。
「そうだな、あんた贅沢しねえしな」
「――っ」
 声のする方へ背を向けたまま首だけ動かせばそこには予想通り元親が立っていた。彼は視線が合うとゆっくり歩を進めての横に座り込む。
「寄るな。会いとうないという旨意が分からぬか」
「俺は誰かさんが言うように阿呆なんでね」
「ふん」
 そう返して首を元に戻そうとすると、忘れもんだぜ、と声が降る。改めて視線を戻せば彼の手にはかわほりが握られていてその上には花冠が載っていた。手渡されるそれをは何故だか振り払えなかった。移動の為風に攫われてしまったのか花びらの数は少なく、それが一瞬の夢のように思えて虚しい。せめてこれ以上散ってしまわぬようかわほりに挟むようにそっと閉じた。
「なあ
「なんだ」
「あんたは毛利から長曾我部に嫁いだんだ。難しい立ち位置だからこそ色だのなんだの言わず歩み寄ることも大事だぜ?」
「余計な世話だ。嫁いだなればこそ室の務めはこなしている。それ以上煩わしきを求めるな」
「そんなこと言わず声の一つもかけてやんな。あいつらだってそれを待ってんだよ」
「例えそうだとしてもそれは貴様の顔色を窺ってのことだ」
「んなこたねえよ」
「知らぬ」

「煩い」
「頑なだねぇ。声一つかけてやるだけでいい。心遣いから信が湧けばそれがあんたの身を守る」
 だがその文言は激しくの情動を揺さぶる。
「はっ……! 信? 家臣など禄一つで動くではないか! 信じるに足りぬっ」
「あんた……っ」
「この者らとてそう、禄を食めば敵の女子に頭を下げねばならぬ、その程度だ。なら離れてやるが心遣いよ!」
 鬱積した感情に任せ吐き捨てて立ち上がるだが、当の相手はそれを許してはくれない。存外強い力での腕を握り留め置こうとする元親の眸はわずかに厳しい。
「放せっ」
!」
「っ!」
 夫は更に力を強め腕を絞める。妻が僅かに眉を顰めると無自覚だったのか、吐息と共にほんの少しそれを弱めた。鷹揚さを顰めた声は何時もより低く否が応にもの耳を突く。
「謝りな」
「……」
「謝りな。家臣ってのは俺らとおんなじだ。血も通えば感情もある。禄一つなんて言葉で片付けるんじゃねえ」
「……貴様の知る家臣というのはそうなのだろうな」
「何?」
「貴様らはおめでたいと申しておるのだ! 貴様の価値観が総てと思うな!」
 言葉と共に掴まれぬ方の手で爪を立て、掴まれた腕は渾身の力で元親を振り解く。打掛を翻して逃げ去るの表情はふてぶてしいとは言い難く元親は思わず怯んでしまった。

 広縁を進み渡殿を抜けてゆくの姿を見送りながら元親は息を吐き、それまで固唾を呑んで見守っていた侍女たちに声を掛けた。
「悪ぃな」
「いいえ殿、お気遣いなさいませぬように」
「口は悪いが酷え女じゃねえ」
「存じておりますとも、ご心配下さいますな。お方様はああ仰せですけど手の掛かる御方ではございませんしわたくし共は楽をさせて頂いております。愛想はおありになりませんが不当な扱いをされる御方でもありませんの」
「そうか? 先日も風邪を引いた侍女にきつい言葉を言って下がらせたと聞いたぞ」
「ああ、あれは、ふふ」
「うん?」
 侍女頭が思い出したように笑み口許に手を添えると後ろに控える若い侍女たちも同様に頬を緩める。合点がいかない元親に後ろに控えていた侍女が進み出て、それはわたくしが、と続けた。
「恐れながらその時の侍女、というのはわたくしでございます。あれこそがお方様のお気遣いでございますの」
「?」
「お方様はそのような顔で仕事をされても不快、と仰られてお下げになられたのですけど、本当に冷たい御方なら侍女の具合など気にもお留めになりません。その後はわたくしと仲の良い侍女に看病を申付けられて休ませてくださいました。よく見ておられる御方だと思います」
「……そうかい」
「殿、わたくし共は心配でたまりませぬ。殿にさえお話が正しく伝わっておらぬご様子、あらぬことがお方様のご評判となっております。お方様はご自分の保身を一切なさらぬ御方、これが続きましたなら……」
「そうだな、それは俺も案じてる」
「わたくしはお方様が分かりませぬ」
 元親に呼応するように侍女頭も首を振り皆困惑する。侍女頭の言葉は付きの侍女たち皆の想いだろう。
 侍女頭は主君の婚姻が決まったその日を思い出す。
 家中は荒れたが主君は比較的冷静だった。すぐに親貞をやって奥の人事の入れ替えを行い、お方様付きにと連れてこられた自分たちは幸いにも毛利との戦で家族を失っていない者ばかりであった。それは国主長曾我部元親の気遣いで、が嫁ぐ数日前全員を集めてこうも言った。
『各々思うところもあるだろうが今度来る嫁さんを一番に動いてくれ。他の奴らはそうは動いてくれねえだろうからよ』
 難しい関係の長曾我部と毛利、ことに人身御供に差し出されるお方様はどのような方だろうか、お気の弱い姫様なら本当にお気の毒、きっと心細い想いをされておられるに違いない、我らが盾とならねばと妙な功名心に駆られていた。
 だが蓋を開けてみれば嫁いで来た姫君は元親に脅えるでもなく敬意を払うでもなく、愛想はないがかと言って長曾我部の家のことなど知らぬという訳でもなく、元親が求めれば然したる抵抗もなく受け入れてるようでもあり……そこまで思考を巡らせて侍女はああ、と思い至る。
 あの御方はご自身の全てに”駒”という言葉に変えて諦観しておられるのではないだろうか。だから殿の愛を得ようともなさらないし相手が歩み寄ろうとすればお逃げになる。ただひたすらに目の前のお勤めだけを果たそうとなさっておられるのではないだろうか。
 一度だけ踏み込んで、そのお暮しが窮屈ではないかと聞いたことがある。そうするとは愚問だと返してきた。上の身分の者はそのような感情を持つに値せぬ、それ故に上等なものを着、腹空かすことなく生を食んでおるのだ。心まで自由になろうとは上に立つ者の格ではあるまい、そんな答えだった。
 それは悲しいことだと彼女は思う。総てを諦めるにはお方様は余りにも若く美しい。元親にも皆にもほんの少し微笑むだけで変わるのに。お諦めになる必要などないのに。
 侍女頭がどんなに思ってもそれは当人たち次第。現状が変わることを願いながら、一度宴に戻ると動き出した元親に深々と頭を下げたのだった。

2015.01.10

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