(七)
慌ただしい足音は真っ直ぐにの居室へと迫り、それに驚いた名も知らぬ鳥は寒空へと飛び立っていく。安芸に居た頃、人伝に聞いたあの男の評判の中には教養人文化人という一文があった筈なのだが、が見るにその片鱗はない。
「おい!」
「先触れくらい寄越せ野蛮人」
「んだと」
入室早々けんもほろろな迎撃に出鼻を挫かれた元親だが、侍女たちは格段驚いた様子もない。只後ろの義弟二人はそうではないようだ。親貞も親泰も若干息を呑んだ雰囲気がある。元親は構わずの前に胡坐を掻き、ちょっと話があるんだがよ、と続けた。
「この帳簿なんだがよ、からくりに割り振った金が半分以下になってるんだがどういうことだ」
「要らぬから削った」
「要ら……、いやいや要るからよ!」
「何処がだ。富嶽があり海砦もあってそれを補うからくりも多々ある。当面その保全以外の金子は必要あるまい?」
「新兵器の開発は常に行わなきゃなんねえんだよ! 俺は城に金掛けねえ分そっちを強化してんだ!」
「何が城に金を掛けぬだ。嘘を言え、大高坂山に城を築いたが治水が悪くて浦戸に来たのであろう。建てる前にちゃんと調べぬからこのようなことになるのだ」
「仕方ねえだろ! 治水に詳しい奴がいなかったんだからよ」
「なら上方から呼び寄せればいいだけの話」
「城の治水だぞ! 知識があるからってホイホイと任せられっかよ!」
「なら四国に一生登用するか、誰ぞ習いに行かせればよいではないか。貴様好きなものには熟考を重ねる癖にそれ以外は適当だな」
「ぐっ……」
の言葉にぐうの音も出なくなったのか元親の威勢は段々と萎んでいく。苦笑いを浮かべるしかない親貞と、あーあ、と言いたげな親泰の傍では侍女がそれぞれ麦湯を差し出している。
「はぁ、貴様には期待などしておらぬが吉良親貞ともあろう者が付いておきながら城の治水に失敗して頓挫するなど」
「いやあ義姉上、実はこれ俺が居ない間に進んだ話でして戻った頃には造り始めてました」
「それがまずあり得ぬ」
「それに関してはご尤もです」
あ、寝返った、と思いながら親泰は麦湯を啜る。実際、新しい城を築くことに次兄親貞は反対ではなかった。だが次兄が不在の時に半ば勢いで始めた感があり、治水に失敗したと聞いたときには流石に青筋を立てた次兄が親泰には恐ろしすぎた。それは元親も同じようでその時の惨劇を思い出したのかこっそりすぐ下の弟をチラ見していた。
「大高坂山も整備すればよい城になろうに、海に出るのも結構だがもう少し内地で人を探せ阿呆め」
「アニキ、目の付け所はいいんですけどね」
「となれば、その普請代も考えねばならぬ。言っておくがこの補てんは相当ぞ? むしろ半分以下でもからくりに回す金子があることをありがたいと思え」
その言葉は最早勝利宣言に近いのではないだろうか。元親は、あー、と頭を掻きながら居心地が悪そうだ。は息を一つ吐いて元親を覗き見、普段にない角度から見上げられた夫の方は無視することも出来ず気まずそうに返した。
「んだよ」
「一つ、大きな船を作るのはいいやもしれぬ」
「本当か! 話が分かるじゃねえか!」
「言っておくがお前が乗る為ではない」
「えー」
「交易船だ。せっかく海があるのだ、日ノ本の特産品を回しても良いし多少遠回りとなっても異国と交易する手もある」
「そうだぜ! 世界にゃ色んなお宝がある。それを見つけに行くのが楽しいんだ!」
「だから貴様は乗らぬ。多少なりともやっていたようだがこれを機に手広くやればと言うておる」
「わーったよ」
尤も、四国襲撃の後だ。元親とて本気で国を空けようとは思わない。甚だ面白くはないがの言い分が正論である以上意地を張るのは見苦しい。妙な自尊心がないことは元親の美点と言えた。
「それから」
「まだあんのかよ」
「ありすぎて困惑しておるわ。――ひとつ聞くが男たちが海に出るとなると今までかなりの出費があったはずだ。その際一時金は渡しておったか?」
「ああ、帳簿にもあるはずだ。野郎共に渡してるぜ」
「――頭が痛いわ」
「んなっ?!」
はとうとう額に手を当てて首を振るった。侍女たちも、特に伴侶を持つ年長の者らは口許は笑っているのだが何とも言えない表情を浮かるものだから、元親や弟そして近侍たちもまた、自分たちは何か悪いことをしただろうかと、居た堪れなさを覚えて落ち着かない。
「だからか、これが原因だ。そんな金子、男共に渡してどうする。宵越しの金など考えなしに使うではないか。その頭のお前がいい例であろう!」
「ぐっ!」
「男らが城に登城してる間にでも女子らに直接渡せ。男に金を持たせたら要らぬいざこざが起こる。気を良くした男がその金で外に女を囲ったらどうする。酒を食らって暴れて周囲の家を壊したらどうする。荒くれを制御する為に女子がおるのだ」
それを分かっておらぬとは、と続けるは本気で呆れている。に比例するように侍女たちの表情も曇りそれが女性たちにとって深刻な問題であると気付くと親貞も身が硬くなる。親泰に至っては飲んでいた麦湯が急に冷えたように感じられてのどごしの悪さと言ったらない。
「大方、一時金を貰ったことすら知らぬ女子とておるのではないか」
「野郎共に限ってそんなこたぁねえと思うが――まあ一応釘は刺しとくがよ」
最後はの一睨みによって出た言葉であるに違いない。元親は鬱積した空気を払うように、さてと、と言い弟たちの方を向いて鷹揚とした声で話しかけた。
「おい親泰! 早速どんな船にするか練ろうぜ! 船にはよ、一つでっかい仕掛けをだな」
「ア、アニキ」
「ばーか、武装もなしじゃ交易船なんて狙われちまうだろ」
「そりゃ多少は……でも長曾我部の家紋が入ってりゃ賊も来ねえと思うんだけど……」
流石の親泰もこれには遠慮せざるを得ない。否が応でも視線はすぐ傍の長兄よりも奥で眉間に皺を寄せた兄嫁に行く。
「このからくり莫迦め。そんなものに現を抜かす暇があったら貴様が治水の学修でもしていろ!」
「ってぇ! このアマ!」
の手に合った帳簿は元親の頭部へ直撃し勢いよく振り返ったその先には親泰が脅える新妻の顔があり、弟二人の脳にはやばい、の単語が浮かぶ。
「言葉も悪けりゃ手癖も悪いってか! んとに可愛くねえ!」
「学ばぬ莫迦に振りまく愛想などないわ!」
「ああいいぜ! ならしてやろうじゃねえか! あんたがしっかり監督してな! そん代わり俺が学修してる間にゃあんたに媚薬でも含ませてやっから覚悟してろ! 泣いて元親様こっち来てなんて言っても知らねえからな!!」
「貴様もうどこぞで頭を打っておったのか? 私がいつ貴様の名を呼んだ? ふんっやってみればいい、貴様に乞うぐらいなら手淫でもしてどうにかするわ!」
その科白に盛大に茶噴いたのは動揺を見せまいと口に含んだばかりの親泰で、同じく知らぬ存ぜぬを決め込もうとした親貞も咽る。
「あ、あんた人前ですげえこと言うのな。嫁いで来るまで未通だったくせに途端度胸付けやがって」
「アニキも人前で言うことじゃないからっ! 原因アニキだから!!」
そして四半刻後、よろよろと部屋を去る長兄の後姿を見ながら親泰は我知らず呟いた。
「完全尻に敷かれてるじゃん。結婚は墓場ってほんとだな」
「黙りなさい親泰」
アニキの嫁御はあのくらいで丁度いいかもしれないよ、と続けるすぐ上の兄に親泰は信じられない、という顔を向けたが相対する形容出来ない笑顔に、それ以上何も言うまいと決め込むのだった。