(六)
とは言ったものの、婚礼から一月、図らずも自分の室となったに元親の調子は聊か狂わざるを得ないでいる。四国を空けた贖罪もあれば、毛利元就や大谷吉継への恨みつらみは消えようはずもないし、の言動や物言いは少なからず元就を思い起こさせ、腹も立てば泣かせてみたくもなる。
が、一月も経てば最初は見えなかった部分が僅かながら見えて、元親には彼女が外敵を威嚇する猫のように思えて、聊か毒気を抜かれてしまった気がしていた。あの娘は何処まで頑ななのだろう、毛利元就とはまた違った何かがこの娘の中にある。
それに気付いてしまったのだ、あの初夜の夜も、その後も、睨みつけるくせに僅かに震えているのも。
「で、毛利の娘は嫌だと散々言ってた割に毎晩顔見せてる我らがアニキ」
「あ?」
掻い膝の姿勢で頭をぼりぼり掻く元親を揶揄するのはすぐ下の弟の吉良親貞だ。彼は両手に抱えた文書を元親の文机に落とし容赦なく、これ今日までです、と言ってのける。
「美人は抱くに越したことはねえだろ?」
「そりゃそうですけどね」
尤も顔を出せば、また来たのか分からない奴め、の科白と押し倒そうものならひっかき傷が待っていて顔に出来た時には流石に同情された訳だが。
「アニキには悪いけど俺は好きになれそうにねっす」
「そう言うなや親泰」
「まあアニキの女の趣味なんでそれ以上は言わないっすけど」
「お前にゃ屈しねえぞって顔してる女を落とすのが楽しいんだろ。落ちそうで落ちねえんだけどな」
「わーわーやめやめ! アニキの閨事なんか聞きたくねっす」
女に関しては純朴な二人目の弟香宗我部親泰をからかうのは楽しい。耳を塞ぎ首を振る弟に、こいつにゃ春はまだまだ来ねえな、と思いながら親貞から渡された文書を捲る。びっちりと書かれたそれに、これ絶対今日無理だろ、との抗議は親貞の笑顔に黙殺された。
「そういや昨日から義姉上が奥の仕事をなさりはじめたようですよ」
「あー、んなこと奥の女が言ってたな」
「ちょ、毛利の女に内情を知られるようなことしていいのかよ」
「親泰、アニキの前で言う科白じゃないですよ」
「けどよ」
「いいさ、正直そう思ってる奴が大半だろ。意見として耳に入れとく。まあどうせ隠したところで間者がいりゃ一発ばれだしな」
「鷹揚っすね」
「ああそうそう、その一番下の帳面が義姉上が修正されたものですよ。なかなか厳しくされておいでで」
「んー?」
昨夜もの許を訪れたがそんなことは一言も言っていなかったな、と追思しながら言われるまま帳面を取り出して葉(えふ)を捲る。規則正しかった料紙独特の音が回を重ねるごとに徐々に乱れてゆくさまに親貞が少しだけ笑った気がした。
「おいおい! こりゃなんだァ!?」
久方ぶりに良い日差しの入る冬の果、と元親の婚礼の後処理も終わりほっとしたのか侍女の一人が体調を崩し下がらせる一面もあったが、まずまずの穏やかな空気が流れている。は室内の火桶と日輪の温かさを享受しながら侍女たちから次々に渡される帳面や名簿に目を通していた。四国という領土ともなれば家臣領民の数も多く把握するにはそれなりの労力と時を要する。加えて記された数値は軽く頭を抱えるものばかりで昨日から憤慨と溜息を繰り返しなかなかの脱力感に襲われていた。
「最早どこから指摘していいか分からぬわ」
「はぁ……」
答えながら麦湯を差し出す侍女もなんと返していいものかと困惑気味だ。程良い温かさの麦湯を嚥下するも、よくもまあ今まで誰も指摘しなかったものだ、と続ける正室を見るに、残念ながら麦湯に息抜きの効能はなかったようだ。
「特にこのからくりに掛ける金子の比率はなんぞ」
「長曾我部軍はからくりが主力のようなもので……その、軍備かと……」
「どうだか、軍備と申すなら具足の一つでも増やしてやればよかろうものを。長曾我部の兵は皆軽装すぎるであろう。全くこれでは女子共は皆苦労しておろうな。其方あの阿呆を庇わずともよいぞ」
阿呆とは言わずと知れた元親のことなのだが、殿さま大事の侍女たちもこの時ばかりは新妻を咎めようとはしない。からくりや船の運用、そして航海となれば莫大な金が掛かる。加えて航海中男たちはいなくなることから、家を守る女子たちには心身共に大きな負担が掛かり辟易している者も少なからず居るのだ。
「どうした?」
「お方様の仰る通りでございまして……」
「あの阿呆は気風はいい故、女子らは言い出し難かろうな。まあ軍備というよりこれは明らかに彼奴の趣味、彼奴の懐から出させるが筋」
「はい」
「これだけ此方が出ておるのだから相当だな。理由を付けて一時金でも出してやらねばならん。ああいう手合いの男共は見栄を張る故懐が苦しいとは言わぬであろうし、ことに男が居のうなった家もある故な」
「お方様……」
それは暗に毛利が黒田を使い四国を襲撃した時のことを言っているのだろうと侍女の心は痛む。あの時残っていた男たちは海に出るには心許無い若年や老人ばかりで、それ故に留守を預かっていた。長曾我部軍本来の強さを持ち合わせない彼らに、練兵された水軍が襲来すればひとたまりもなく、女たちは城の中で肩身を寄せ合いながら彼らが無残に散り行く様を見る事しか出来なかったのだ。
「……あの阿呆が何を言おうと、暫くは男共は陸に居らすがよかろう。此方が金子を握っておればそれも出来ようて。陸に居れば良いことばかりぞ。金は貯まり内情が把握出来れば家内も円満になる」
そう言っては再度麦湯に口を付ける。次は飲み干して珍しくもう一杯所望すると侍女はわずかに笑んではい、と頭を下げた。暫くすれば慌ただしい足音が響き、は大いに首を振るった。