(三)
跫音と共に、下げた御簾の先に現れたのは意外な人物達だと言っていい。特出すべきは二人の武将で、後はその家臣らだった。武将の一人は毛利と犬猿の仲である尼子晴久、銀山を巡る交渉という名の凌ぎ合いで何度か顔を合わせたことがある。彼は目が合うと露骨に嫌そうな顔をした。そういうところが兄に敵わぬのだと思いながらはもう一人を見澄ます。
がっしりとした躯体に目の覚めるような黄金色の衣裳、さっぱりと切り上げられた短髪に目許は涼やかで、陽だまりのような温かさ感じた。一瞬にして思う、同じ陽だが兄の日輪とは違うと。
「いやあ、その、すまない。花嫁の顔を花婿より先に見るのは無礼だと先刻承知してはいるんだが……、某、徳川家康。東軍の将の一人だ」
頭を掻きながらそう答えた若武者に、やはりと思う。時として暗に沈み策を巡らせ、かと思えば全てを白日に晒すような強い日輪の下に在る兄とは真逆だ。兄にとっても不快な人物でしかないだろう。そういえばこの徳川家康は長曾我部元親と親しいと聞いた。まして兄は、毛利は、この徳川家康の名を騙り長曾我部元親との仲を裂こうとした。総大将ともあろう者が小舟に乗り、敵たる毛利の船の中で笑顔を振りまき、この人の良さそうな顔の裏で彼は何を考えて此処に居るのか、は注意深く見、探りを入れるべく口上を述べるのだ。
「毛利元就が妹にございます。構いませぬ。大方毛利が替え玉でも遣してきたか見に来られたのでありましょう?」
息を呑む長曾我部の迎え役と来訪者達の側近、眉を顰める毛利方の送り役と侍女らの目を気にするでもなく、さして大事でもないとばかりに被衣を取ってみせると晴久が鼻を鳴らした。
「……ふん、相変わらず可愛い顔してふてぶてしい小娘だ」
「お前は思慮が足らぬままだな」
「ふん」
「毛利に領地を削られ、織田豊臣に泣きついたかと思えば次は徳川の腰巾着、よくも続く」
「何っ!」
「ま、まあまあ! 双方この場はワシの顔を立ててくれないか?」
「ちっ……、毛利の姫、間違いない」
「心得た」
引き下がる晴久に頷いた後家康は柔和な表情で、審議不要だから被衣を、と侍女たちに再び被衣を被せるよう促すとに向き合い気まずそうに頭を掻いた。
「すまない。色んな憶測が飛び交う婚礼だ。こうすることによって毛利側に偽りないことを証明するものだと理解して貰いたい」
「そちらの望まれるままに」
「感謝する」
この爽やかで人たらし然とする表情が癪に障った。彼は自分たち兄妹が捨ててしまった何かを持ち続けそれを昇華させているだろう。
「その……」
「? なにか?」
「ああ、その、なんだ、……元親は、海そのもののような男だ。戦場では嵐のように荒れ狂い、陸では凪のように穏やかで、そして広がる水面のように懐の広い」
「……」
「貴女が幸せになれると信じている」
世迷言をと思った。兄の策で四国は壊滅した。長曾我部元親の家臣も多く死んだと聞いている。今国がどうにか立ち行くのは有能な側近たちがその被害に合わず采配を揮っているからに過ぎない。燃えた地に伏せる家臣、それを見た長曾我部元親の憎悪と絶望を和らげる要素がには見つからない。鬼と言われるあの男が勘気を振り翳したとき、それに容赦なく晒される自分は虐げられるか殺されるかしかないのだろう。毛利から切り離された我が身は、いわば長曾我部に出された人身御供なのだから。
「徳川様」
「なんだろうか?」
「お言葉はご無用にございます。私は駒。駒に御心を砕いて下さいますな」
「殿……」
それを悲しみはしない。ただそうなのだと諦めている。駒として生きると決めた時から覚悟は決まっている。泣き叫びはすまい、そう改めて誓って去りゆく家康に静かに頭を下げたのだった。
東照が千夜を望む砂の武将と共に去ってから、安宅船は穏やかな海を進みもうすぐ目的地に着くというところまで来ていた。去り際、晴久が、毛利のことだ、船内に必要以上の銃やら仕込んでるかもしんねえぜ? 念の為狭間を塞いじまいな、と長曾我部側の迎え役に耳打ちした。は負け犬の遠吠えだと鼻で笑ったが、福原は憤慨し、それ以来険悪な両家は益々険悪となり外と反比例して時化(しけ)のような重苦しさに包まれる羽目になり、何日か続いたそれは双方を疲弊させた。あの砂好きは碌なことをしない、思わずそう呟かずには居られなかった。
「姫様」
「何か」
「長曾我部側の船が見えました。これにて姫様を彼方に御引渡しすることとなります」
「そうか、御苦労。其方ら気を付けて戻れ」
「はっ。姫様どうか御身ご大切に」
お幸せに、と言う文言は誰の口からも出ない。を幼い頃から知る継母の侍女は思わず啜り泣き、この婚礼に先立ち付きを命じられた新参の侍女たちも目を覆った。暫く時が流れたが長曾我部側の迎え役が御座の間に来て、此方へ、と促されるとは答えず立ち上がり御座の間を抜け階段を上る。途中船が揺れて、の手を取っていた侍女が脅え立ち止まるが、すぐにそれが長曾我部の船から渡し橋が掛けられた為だと知らされて迫りくる別離を実感すれば皆一層顔色が曇るのだ。
「お早く」
と急かす長曾我部の迎え役を無粋に感じながら階段を上りきったは微動だにすることなく目の前を見据え、甲板に到達すると先程にはなかった光景が広がっていた。はためく多数の七つ酢漿草、毛利の整然とした将兵とは違う荒くれたち、そして一等目を引いたのは碇槍なる大きな槍を肩に抱え二藍の衣を身に纏った背の高い男の後姿、その名も風貌も何度も聞き知った西海の鬼だ。
「長曾我部元親……」
が我知らず呟くと、それが彼の男の耳に入ったか存ぜぬが二藍の鬼がゆっくりと此方を向いた。大海に出て日に晒してるはずの肌は白く、兄とはまた別の美丈夫だが不敵な口許と眼光が油断ならない。を見る眸に好意は見えず、もまたそのように相対した。彼はフンと鼻を鳴らして大股でゆっくりと近づいてこう言った。
「いけすかねえ野郎の妹さんのお出ましかい」
元親の手は無遠慮にの顎をくいと上に向ける。その様に福原の後ろに控えた家臣が腰のものに手を掛けようとすると長曾我部の兵が殺気立ち、侍女たちは姫様、と悲鳴を上げた。
「ふうん、同母妹とは聞いちゃいたが、顔はあんま似てねえな。まああの野郎と同じ顔の女を抱くなんざ拷問だがね」
は無表情のままそれを聞いていたが、次の瞬間元親の表情が嫌悪に歪み顔を近づけて来た。
「人形みてえだな。冬の海に落としもすりゃその顔は変わるか?」
「好きにすればよい」
「ハッ!」
元親は吐き捨てるように笑い、手を放すとに背を向けた。
「花嫁は此処で貰っていくぜ? 作法にゃ乗っ取んでんだろ?」
「……はっ」
その後は双方の家が繁栄するようにと形ばかりの千秋万歳の口上が家臣らの口から述べられ、それがあまりに皮肉だった。終われば元親はを一瞥して、早々に自分の船へと立ち去って行き、もまた御座の間に戻り溜息と共に敷物に座す。花嫁引き渡しの作法に乗っ取り船の多数を引き上げていく毛利水軍を窓から見送る侍女たちの表情は沈痛そのものだ。しっかりなさい、と言う古参の侍女からも空元気が見えて虚しくなるばかりだ。
致し方なきこと、我らは今毛利から放り出されたのだから。