(二)
西軍敗走が確定する前、早々に軍を引いた毛利元就はいち早く本城から退去し周防長門に下っていた。大坂方の大谷吉継の自刃、石田三成の斬首などが進められる中、毛利にも西軍加担四国襲撃の責に対する詰問の使者が何度となく訪れたが、西軍加担の責は本城を退き長門へ下ることで回避し、また四国襲撃は大谷吉継の謀、その一切を知らぬという姿勢を貫き通した。
誰の目にも毛利加担は明白だったが、用心に用心を重ねた元就は物的証拠を残さず、手枷の鍵をちらつかせた黒田官兵衛も口を噤んだことで手出し出来ないでいる東軍を尻目に、周防長門に形だけこもる素振りを見せていた此処一月、ついに中国のある地域で反乱が起こったという知らせが忙しく領内を駆け巡っていた。
「ふん、徳川め。中国の接収が予想より巧くいかぬので痺れを切らせおったか」
そして今、長門と安芸の国境に位置する仮の城で毛利元就は徳川家康から来た書状を眺め鼻を鳴らしていた。思惑以上の結果がそこに羅列していたからだ。
それは破格の待遇だった。元就の同母妹姫と長曾我部元親を両国の和合の為婚姻させれば領地は戻す、それ以上の咎めなし、と。傍から見れば何か謀があるのではないかとさえ思える条件だ。
だが元就はこうなることを分かっていた。農民というものは領国経営の財でありすべての源、土地があっても耕す者が居なければ何の意味もない。故に、畑一つあたりの税率を減らし、その一方で開墾を奨励し、働けば働くほど利が増えることを知った領民は開墾に励み、元就は増えた田畑の分年貢を得たのだ。結果、卑しい出自であるが故に隠し畑などの存在を知り尽くしていた豊臣は検地を厳しくし、縛り付けられていた豊臣の領民は新しく来た領主に反抗もせず、対して今の暮らしが良い毛利の領民は新領主を断固として受け入れない姿勢を取った。民もまた元就の思惑通りに動く。だからこそ早々に兵を引き引き籠ったのだ。
「順当だな。所領を削れないとなれば我から人質を取る。そうであろう?」
「はい」
「不満はないか」
「微塵も」
「そうか」
元就は下座で背筋を伸ばして座る年頃の娘にそう言った。細身に海松茶色の髪は元就によく似ており、眸は理知的で長い睫が女性らしさを際立たせている。その長曾我部元親と婚儀を交わすのは彼女、姫なのだが彼女は格段興味を示すでもなく花唇を開いた。
「指月山に築いております城は如何なさいます?」
「そのまま続行だ。郡山に戻ることになろうがついでだ、己斐浦にも城を築こう。山城ばかりでは不便故な」
「はい」
「」
「はい?」
「無常を嘆き、我を非情に思うか」
「そのような、万に一つもありはしませぬ。私は駒にございます」
「……命に危険があれば知らせよ」
「心得ました」
そうは言っても、この妹は連絡を寄越さず死ぬのであろう、元就はそう思いながら隙のない所作で立ち上がり庭へを歩を進める。庭に咲く梔子を見止めれば散り際の美しさがこれから起こる何かを予感させるようで不快だった。
「余計な疑念を起こさせぬ為にも婚礼はなるべく早い方が良い。年明けには其方を四国に送る」
「承知致しました」
妹は予想通り落ち着いたままだ。胸中に沸く若干のもどかしさを抑え、元就は顔色を変えぬ自身とを只々沈痛な面持ちで見ていた妻を呼び止めた。いつもと同じ口調で、其方が調度を整えてやれ、我には分からぬ故な、と言い置くと一度だけ息を吐いてそのまま奥御殿を後にするのだった。
婚礼は年を跨いだ一月に行われると決まり、家中は上へ下への大騒ぎになった。中国の覇者毛利元就の妹姫が嫁ぐ、それだけでも大事なのだが、相手が相手で、婚礼を斡旋したのも微妙な人物だ。調度品の量も格式もどれ程のものが良いか、兄嫁も家臣も日々頭を悩ませた二ヶ月が過ぎる。
その間も義姉はを気遣い度々顔を出してきた。は兄程でないにせよ素っ気無い姫であったが、決してこの義姉を嫌ってはいない。彼女は兄元就がどのような批評をされようと兄のすることに口出ししない。だが兄を恐れてる訳でもない。何があっても夫と共に行くと決めている人だ。だからこそ兄は彼女を傍に置くのだろうし、総てを凍らせたはずの兄から垣間見える義姉への情愛は決して不快ではなかったからだ。
貴女に何の災いもありませぬように、と手を握る義姉に、ご心配なさらずとも何もありませぬ、私はあの兄の妹でございますから何なりと切り抜けましょう、そう返す度に義姉はまた泣いた。自分たち兄妹は感情を表に出すことに慣れていないが、この義姉は感情に豊かだった。きっと兄が泣かぬ代わりにこの人は泣くのだろう。
そんな義姉だが婚礼が決まって一度だけ意を決したように言ったことがある。逃げ出したくはありませんか、と。の身を案じる余り義姉は初めて兄の意向に背こうとした。その気持ちだけでは戦える気がしたのだ。
静かに首を振り、笑んで見せると義姉はぎゅっと抱きしめてきた。兄の妻がこの人で良かったとは素直に思えている。これから先、自分はこのような夫婦関係は望めない。それは目に見えている。なればこそこの安芸の兄夫婦だけは穏やかに過ごしてもらいたい。兄がどのような酷い手を使っても、その上に成り立ったものであるとしても。利己的と言われても構わない。毛利はそうでなければ生き残れなかったのだから。
婚姻が決まってからの出来事を思い出し、去来する想いを胸には静かに立ち上がった。彼女は今、毛利水軍の有する安宅船に乗り四国へと向かっている。外には大海原が広がり、青い空にかかる白い雲に、この身に纏う婚礼衣裳ごと吸い込まれてしまいそうだ。長曾我部元親という男はこの大海を愛してやまないのだという。それ故に付け込まれ失策を犯したのだがそれでも彼に付いていく者は後を絶たないそうだ。兄は失策をしないことで民が付いてゆく。兄とは真逆な男、相容れぬだろうし相容れる気もないと改めて思いながらゆっくりと息を吐いた。
海風が頬を撫で被衣がはためく。自分が徐々に長曾我部元親の領域に足を踏み入れる気がしては唇を噛んだ。
「姫様」
「何か?」
「小舟が……」
侍女が耳打ちし振り返ると、送り役の家臣福原広俊が長曾我部から来た迎え役の家臣に怪訝そうに問うのが見えた。わだつみを眺めていた方向から逆の左舷へ歩むと遠くの岸にいくつかの小舟が控えておりそのうちの一つが此方に向かって来ていた。ここはまだ長曾我部の領内ではないはずだと思っていると近づく小舟に黄色に旗が見える。
「三つ葉葵……」
「と、徳川っ」
送り役もすぐに旗色を認識したようで忙しくの前に畏まる。
「如何致しましょう。姫様の御身を狙うものかもしれません」
「徳川め、此方が拒否出来ぬのをいいことにあのような小さな小舟で何をする気だ」
「構わぬ。これに乗っているのが兄上なら問題だが、私が囚われるか殺されるなら毛利に大義名分が出来る。もし私に何かあれば助けるなどとは考えず急ぎ戻れ。そうでなければ一切手を出してはならぬ」
「姫様っ」
「よいな」
「ははっ」
小舟は波と遊ぶように近づき、中から人が高さを越えて乗り込んでくるのを見て、は手早く御座の間へ戻った。小さい小舟で近づいたのは此方の安宅船が大きすぎると難癖を付ける為やもしれぬと顔を強張らせる送り役や姫の身に万一のことがあればと懐刀に手を置く侍女らに、落ち着け、と言い置いて背筋を伸ばす。
分かっていたことだが一寸先は闇、多難が待ち受けているのだと実感しながら木の階段を降りる複数の足音に耳を澄ますのだった。