(一)
天下分け目の関ヶ原の合戦、その勝利を手にした徳川家康は江戸に築いた城でその戦後処理に追われて連日頭を痛めている。何せ日ノ本を二分した合戦だ。その数は無数に散らばる大名家の数程ある。加増、安堵、減封、移封、はたまた改易から刑死、日ノ本を再び割らない為にもその処置は慎重を要した。天下を手にしたと言われてもそうなった気がしないのは一向に減らないこの書状、文書の山のせいだと家康は思っている。
そして今日も今日とて家康の頭を悩ます報告が遠方に飛んでいた家臣から齎されるのだ。
「なに、中国地方の接収がうまくいかない?」
「はっそれが、その、中国の民は毛利の支配を受け入れておりまして、他の領主が来ると知って各地で不穏な動きが出ております」
「なに?」
「魔王が出ても覇王が台頭しても安定した領国支配を行っていた毛利の統治こそ望んでいると……。今や各地で小競り合いや一揆も起こり始めておる様子」
「うむぅ……」
中国地方、それは西軍に組した毛利元就の所領だ。家康の名を騙り黒田官兵衛を使って四国を襲い、怒りに燃える長曾我部元親を謀って西軍に組させたあの謀将の行いを家康は感情では許してはいない。許してしまえば民を殺され騙された友の嘆きと怒りを無碍にしてしまう気がしたからだ。だが、人々の絆を謳い、日ノ本の統一を望む家康にとって殊更強い処断をしてまた国内を荒らすのも本意ではなく、天下に大手を掛けた者として大局で毛利を減封に留めるに至っている。
「家康様、如何致しましょうか」
眉間に皺を寄せる家康の様子を窺うように本多正信が問うてくる。毛利ほどの大封を持つ大名だ。もとより容易に減封移封が完了出来るとは思っていない。が、この処置を違えれば全ての戦後処理に関わるのは明白で感情に流されず的確な配慮をせねばならないのだ。
「……一揆を制圧するのは簡単だ。だが領民を傷つけて領地の接収を敢行するのは本末転倒だ。そんなことをすれば新たな領主相手にまた武器を手にするのは目に見えている」
「左様にございます。加えて諸将の感情も民の気持ちも離れてしまいます。それこそ、今沈黙を守っている毛利がこれ幸いにと動く可能性とてございまする」
「しかしながら毛利をこのままのさばらせる訳にはいきますまい」
「長曾我部様の溜飲を下げる形にもせねばならぬかと」
家康の言葉に呼応する家臣たちの言葉は家康が何度も堂々巡りをさせた考えと同一だった。竹中半兵衛同様何を考えているか分からぬ毛利元就、あの謀将から牙を剥く手立てなど無きに等しい。
「毛利の首根っこを掴み、四国の溜飲を下げる方法……か」
腕を組み唸る家康とは対照的に、家臣たちはそれぞれ首を振り、ええいっと忌々しく声を上げる。
「そもそも! あれだけのことをしておいて取り潰しにならぬだけでもありがたいことであろうに! 領民を宥めでもすればいいものを」
「返す返すも毛利め、旨くやりおったわ! 四国襲撃の証拠を総て消し去りおって!」
「大谷がやったとそればかりよ。死人に口なしとはまさにこのこと」
「あれ程の大大名、取り潰してしまっては市井が混乱する故の譲歩であるというのに……! こうなることを予想して減封にも従ったのであろうよ。ええいあざ笑う顔が目に浮かぶようだわ!」
「よせ、言っても始まらない。そうだろう?」
「家康様」
「民がそう動くということは毛利は民にとって良い国主であったということだ。そこは見習えば良い。もう少し熟考しよう」
その勇猛さから赤鬼と評される井伊直政が痺れを切らしたように矢継ぎ早に毒を吐き出すを窘めて、休憩しよう、と近侍に茶を運ばせようとしたところ、書院に向かってくる複数の足音が耳を突く。聞き覚えのあるこの歩調に家康は少しだけ安堵の息が漏れ出でた。
「徳川」
「孫市、独眼竜」
「煮詰まってるみてえだな」
「ああ」
この度家康の東軍として組した雑賀の黒鳥と北の竜が、近侍が急ぎ出した敷物に腰を下ろし家康に労い半分からかい半分といった視線を向けてくる。独眼竜伊達政宗ならばこういう場合の処断は早いのだろう思う。
「中国地方の接収がうまくいかないんだ」
「毛利が何かしてるのか?」
「いや、毛利は手早く立ち退いた。領民が毛利を戻せと反発してる」
「家臣にゃ恐れられるあの毛利がねえ……」
政宗は腕を組み首を反らして見せた。皮肉るような時に見せる彼の仕草だがその所作の一つ一つが女たちの心を捉えて離さない。そんな政宗の後ろでは腹心片倉小十郎が難しい表情のまま坐している。
「家康、それなら毛利から人質を取っちゃどうだ。幸い毛利には妹がいる」
「ああ、聞いたことはあるんだが……。正直毛利がその程度で身動きが取れなくなるとは思えなくてな」
「まああの毛利じゃ傍から見りゃそうだな。だがな、この妹ってのは中々例外かもしれないぜ」
「例外?」
「ああ、その妹、毛利の同母妹で毛利不在の間領内の采配を任されて時に重要な案件の裁断もやっているらしい」
「あの毛利が他者に国のことを任すのか?」
「そう思うだろ? でだ、毛利領内のことに詳しい妹が人質にしろ縁戚にしろ嫁いでいなくなれば毛利の性格上だ、暫くは内政に打ち込まなきゃなんねえ」
「数年は抑えられると?」
「そういうことだ。まあ、嫁ぎもせずあの性格の謀将の傍に居るような女だろ。どんな女か見たくもあるな」
「……独眼竜、ワシは人質というのは好かん」
「そう言うと思ったぜ。なら誰かの嫁にしな。表面上でもそれで体裁は整う」
「では誰に?」
「誰にって、俺は御免蒙る。アンタが貰いな」
「な、なっ!? ワシ!?」
「はっきり言ってアンタは勝者だ。何の問題がある? ――確か……毛利とは少し歳が離れていて今年で十九」
「それならお前だって年齢は合うじゃないか!」
嫁に取れ、という文言に動揺を隠さない家康と、押し付けが見え隠れする政宗に小十郎も首を振るばかりだ。埒が明かぬと呆れた顔で口を開くのは雑賀の三代目だ。
「ふん、からすめ。夫婦仲に漸く雪解けが見えて来たところだから遠慮すると言えばいいものを」
「うるせえ」
孫市の言葉に露骨に顔を反らした政宗は気まずそうに頭を掻く。彼が元服してすぐに嫁いできた妻は実家とのいざこざで誤解が生じ長年不仲のままだった。それが歳を重ねて少しずつ歩み寄るようになるとそれまでは分からなかった互いの立場や愛しさを覚えて、夫婦の間には穏やかな時間が流れ始めたところなのだ。政宗としては妻の心を荒らしたくはないのが本心だった。
孫市はそんな彼を笑ったがそれは馬鹿にするでもなく温かい心持ちで見ていた。面白いように勝ち進み、小田原で屈辱を覚え、それから一層大きくなった竜、その彼を支えるのは右目とこの場にいない彼の妻なのだろう。
「男二人、毛利の妹に何を動揺するか知らないが打って付けの相手がいる。我らは傭兵、国主らの謀りに何を意見するのかと笑いたければ笑っても構わん」
「ワシはお前をそんなふうに笑ったりはしない!」
「ふふ、むきになるな。――ならば徳川、そのくだんの姫、毛利によって被害を一番受けた人間に嫁がせればいい」
「毛利によって」
「被害、か」
「そうだ」
政宗と家康は孫市の言葉を反芻し、ややあって竜の方が大きく首を振り腰に手を当てた。
「おい三代目、割とえぐいこと言うな」
「お前たちの押し付け合いよりはマシだと思うがな。何といっても利がある」
「だがその娘いい思いは出来ねえぞ。幾らあの西海の鬼が人の良い男であっても、出た犠牲が大きすぎる」
「だろうな。だが、あの毛利が人質を出した、となれば四国領民の溜飲は下るだろう」
「元親が、その姫を害しはしないだろうか」
「徳川、お前がそう思うならその程度の男なのかも知れんな。だがこれが一番効率の良い方法ではないか? 姫には一応の同情はあるが、毛利の謀の上に成り立った禄を食んだ手前、それ相応の責任というものがあるはずだ」
孫市の言葉は一点の曇りなく家康を貫くが、この場に居ぬ友や姫君への申し訳なさに良心は痛む。それを乗り越えてこそ日ノ本を統べることが出来るのだと分かっていても、理性と感情は別物なのだ。
「まあ、あの男が嫁を虐すなどありえないだろうがな。莫迦が付くくらい気風のいい男だ」
家康は暫く唸り続け、政宗もまた複雑な表情のままだ。一度竜の右目がちらりと孫市を見たが当の孫市はその視線に答えてやる必要はないと感じた。だが、此処まで言った手前念の為にあのわだつみのからすに釘を刺しておかねばならないなと考えながら茶を啜ったのだった。