つつゐづつ井筒の上に水越えて(四)

 それから私は時間いっぱいまでご飯を食べて顔を洗って歯を磨いて身支度を整えた。指定通りの時間に階下へ降り母の待つ車が見えると、それが先日の車を思い起こさせて眩暈を覚えた。助手席には懐かしい顔が覗き、それが政宗の養育係の一人で今は第一秘書を務める片倉喜多さんだと気付いた。彼女は目を細めて、お久しぶりでございます。本日は様に御付致します、と言い丁寧に頭を下げてきた。四十をとうに超えてるはずだが彼女の艶やかさに遜色はない。私が車に乗ると喜多はてきぱきと指示を出して車を発進させ、その後は何処かに電話をかけるなど忙しい。有能なのは私が小さい頃、政宗と一緒であった頃より変わりはないようだ。
 車は渋滞もなく順調に進み所謂高級サロンの前で止まった。あっけに取られる私の手を母が引いてずんずん中へと入っていく。丁寧に頭を下げるサロンのお姉さんたちにやはり喜多さんが指示を出して、抗議の声を上げる間もなく私の身体はどんどん磨き上げられていった。マッサージをされながらうたた寝をして、途中お昼ご飯も出て、それが終わればまた頭の毛からつま先まで余念なく手入れさせられる。化粧も髪結いも終わる頃には私はくたくたで、そんなときに登場したのは淡いパステルカラーに紗形の地紋、菊や雪輪、熨斗柄に南天、椿など古典柄の鮮やかな振袖だった。いくらするんだろ、なんて俗なことを考える前に立たされて引っぺがされてどんどん纏わされてゆく。苦しいし、我が身が鮮やかになるにつれ心は逆に惨めになっていった。
 これを着た私を見た政宗はどう思うだろう。彼は私の容姿や服装を誉めたことなどない。エステから戻っても、ああ今日は行ったのか、と一言あるくらいだ。ほんの少し化粧を憶えた高校時代のあの日も、大学生になって初めて髪を巻いたあの日もそうだった。鏡に映る自分を見ても心は一向に晴れなかった。
 一層憂鬱になる心を抱えたまま、サロンを後にして時間ギリギリに式典会場である大きなホテルに着くと政宗らは居た。目が合うと彼は暫く無言で、あの、と声をかけると彼はただ一言、行くか、と言うのみだった。ほら、やっぱり感想すらないんじゃないか、と予想を立てる自分も悲しかった。
 暫くしていると喜多さんに親しく話しかけてくる女性の姿が見えて、私は目を見張った。それは確かに、あの夜政宗と口付けをしていた女だった。彼女は数人いる政宗の秘書の一人で喜多さんの下に居るのだという。便宜上政宗と腕を組む自分の居た堪れなさといったらこれ以上ない。合併の式典、婚約のお披露目、それをよりによってこの人の前でしなければならないのか! 顔を引き攣らせない代わりに腕の震えは止まらなかった。
 それでも私は笑顔だけは必死に振り撒いた。合併が円満に行われたものだと招待客が思うようにする為には必要なことだったから。子供の頃は言われても漠然としていたけど今なら分かる。父は確かに会社と社員を愛していてその家族の生活を護ろうとしているのだと。社員が思うが故に父はこの結婚に横暴なのだと。それについてだけは納得してはいないけれども。

 一通りの挨拶回りが済んだ頃、政宗に親しげに話しかける男性たちが居た。年の頃が同じくらいだから友人たちなのだろうと思い、私は休憩する旨を伝え一度パウダールームへ引っ込んだ。
 一人になれば途端に息を吐いて襲い来る疲労感と戦うことになる。色んなことが凝縮されすぎてて目が回りそうだ。挨拶回りが終わったから式典終わるまで後何分だっけ、親が何か仕出かしてくる前に帰る算段をつけよう、なんて考えながら、グロスを僅かにひいただけの化粧直しを終えてまたホールに戻る。いっそ今すぐ逃げちゃえたら楽なのにと思うけどその後が怖い。ああやめよう不毛だわと首を振り、男性のバンケットスタッフからカクテルを受け取って口を付けた。すると後ろから、とても柔らかい声音で、様、と呼び止められた。
 何の警戒もなく、何か? と後ろを向くと声とは裏腹に悪意を含んだ目付きの女が立っていた。それは私が一番接触したくない人物。あの夜、マンションの下で政宗と口付けを交わしていた女だった。間近で見れば物凄い美人でもう嫌になる。開口一番彼女はこう言った。
「社長令嬢って羨ましいわね。黙ってても親がいい男捕まえてくるんだもの」
「……は?」
「私と政宗は愛し合ってるの。どうぞお宜しくね。若奥様?」
 嘲笑を含むそれは、中学時代、私に陰口を叩いた女の子たちと一緒の部類だと思った。
 随分挑発的な態度なのは絶対的な勝利の確信があるのだろうか。愛されてる女って強いんだろうと思う。ただ、こんな態度は程度が低い、なんて考えながら政宗はこういう女が好きなんだと思うと失望が生まれた。
 後ろでやっかみ半分好奇心半分でそれを見る男女が口元を押さえてる。異様な空気は周りにすぐ伝わり、政宗の友人もその視界に入ってきて慌てて政宗を呼び寄せる姿が見えた。それからすぐに騒ぎを聞きつけた政宗が喜多さんと共に来て、おい、と言う瞬間私が先に口を開いた。ここまでされて政宗に口を挟ませる気は毛頭ない。
「貴女頭大丈夫?」
「は? 何?」
「婚約をしている男女は法的にも婚姻関係に近い扱いを受けるんだよ。それを裂こうっていうなら貴女、何においても有責になるって分かってる? 結婚はしていないけど私を若奥様と呼ぶからには貴女が不貞の片棒だという認識はあるのよね? 貴女が彼の恋人とか愛人とか言い張って私たちが別れたら、私貴女に慰謝料請求するけど払う覚悟はあるの? 言っとくけど普通の賠償額じゃ収まらないよ? だって合併絡んでるもの。社員の生活諸々の責任、貴女一人でどうにかなる額じゃないよ? 親兄弟に掛かる迷惑とか考えてる?」
「な、随分俗な物言いですね。脅すんですか?」
「それ、全国の弁護士に言ってあげなよ。怒られるから」
「申しますが余り品のいいお言葉じゃありませんよ」
「それは貴女の身持ちそのものね。ドラマの見すぎ。イケメン御曹司の愛人気分? 外聞気にして私が黙って耐えるとか思ってた? 世の中そんなに甘くないのよね」
「嫌な人、貴女邪魔なのよ!」
「それはごめんね。でもそれお互い様だと思うよ。ただ私は泣き寝入りはしないし、不利になるようなことはしないの。それだけは憶えておいたほうがいいね。で、まだ言いたいことある? 私はいっぱいあるんだけどね」
 いつの間にか彼女の後ろに小十郎と政宗の従弟の成実が世にも珍しいものを見たとでも言いたげな表情で立っていた。こんな場であるというのに割って止めにも入らないってことは、この女の人の方に重きを置いてるからなんだろうか。まあ家同士の結婚より恋愛をとるなんて人の心を引く話ではあるよね。
 だから結局自分で頑張るしかない、歯を食いしばって耐えるしかない、誰が屈してやるもんですか。
 彼女はといえば政宗と甘い生活を送っている訳でもない私から反撃があるなんて思わなかったんだろう。プルプルと震えて立ち尽くしていた。其処で漸く政宗が踏み出してきて、気付いた彼女は政宗に縋り付こうとしていた。ああ、いいなぁ。そんな姿も絵になる美人だね、政宗。
「政宗、随分頭の悪い女抱いてんね。私他で挨拶してくるから。――皆様お見苦しい場をお見せ致しました。どうぞ酒の肴にはなさらないで下さいませ。私も流石に恥ずかしゅうございます」
 そこでお前がヤラせねえからだとか、関係はほぼ破綻しているなんて言われたらもう終わりだなあなんて考えたけど。もう後のことなんて知ったこっちゃない。政宗が仕出かしたせいなんだからと、深々と一礼をして動じることなんて一つもありませんって顔を見せ付けることにした。それから踵を返し背筋を伸ばしてその場から退くと、後ろで小十郎があの女性を誘導する声が聞こえ、私には付いてくる足音は一つもない。そういや小十郎が私に付き添ったことなんて一度もないや、合併するっていうのに政宗の部下からもそんな扱いとはなんて惨めなんだろう。も私も別に要らない訳だ。
 他の人には放っておいて欲しかったけど、ほんの僅か、政宗が呼び止めてくれればと思った。暫くして意を決して振り返ればやはり彼の姿はなくて、弁解すら必要ない訳だと思い知るだけだった。

 女のほうには完膚なきまでにやったつもりだが大勝利なんて程遠いよばーか! ダメージ無限大だちくしょうめ!

- continue -

2013-03-09

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