つつゐづつ井筒の上に水越えて(三)

 かすがに吐き出し決意も新たにしたものの、一人になり夜を迎えれば脳裏と心を埋め尽くすのは耐え難い光景と政宗の顔だった。体現するということは此れほど難しいものなのかと夜な夜な思い知らされた。
 一月近くが経ったが、あれから私と政宗は一度も顔を合わせていない。政宗は朝早く出て夜遅く帰る生活を繰り返し、土日の休日も居なかった。そういう時は大抵朝食と置手紙があって喧騒も聞こえぬ部屋でそれを読むのが常だった。同居上総てを知らないふりとするのは流石に躊躇われて私もまた置手紙を書いた。洗濯とアイロンと晩御飯は暫く私がやるから置いておいて、と。手紙を書いた夜布団の中でふと思った。政宗のことだから洗濯なんて全部クリーニングに出すぐらいはするかもしれないのにと、相手の女も居るのに要らないことをしたかもしれない、うざいことこの上なかったかもと。翌日はまた一緒だった。朝食といつもの置手紙。置手紙には頼む、と一言だけ書いてあってとても安堵したのを憶えている。
 これだけ携帯やらメールやら普及した世の中で置手紙が連絡手段なんて笑ってしまう。私は政宗と話すのが怖くてすぐに返事のしなくていい手紙を使ってしまうのだけど、政宗も私と直接会話をするのが嫌なのかも知れない。許婚で中途半端に手を出してしまった女だから扱いに困っているのだろうか。誤解されたくないから距離を置いているけど許婚の手前粗略にも出来ない、大方そんなポジションなんだろう。でももうすぐ私も社会人になる。二人の転機は多分此処なのだと私は勝手に思っている。
 それでも思い悩んだ結果か私は就職活動に身が入らず、卒業まであと数ヶ月という時期に差し掛かってしまった。卒業は三月、司法試験は五月、合否発表が九月、在学中に受けて合格出来れば最高の理想系なのだが世の中そんなに甘くない。在学中、新卒で合格できるのはほんの僅か、就職活動と平行ならばなおさらだ。今の自分の頼みの綱は十一月に受けた行政書士の合否だ。これも一月末にならねば結果は分からないが合格すれば途端道が開ける。早く一月になって欲しい、でもその時期は政宗との関係もカウントダウンが始まる頃、少し思えば身につまされる日々はまだまだ続くのだ。

「あーぁ……」
 年末に差し掛かる頃、進退窮まった私に母からメールが届いた。元気にしているか、から始まり政宗のサポートをしているか、母が言ったとおり定期的にエステに行っているか、身綺麗にしていなければ女は駄目よ、等と結婚に幸せを見出した母らしい文面が並んでいた。高校時代、あんなに反発して奨学金とバイトで大学に通うと言っていた私なのに蓋をあければ親の援助で政宗と暮らして言い付けられたとおりエステなんかも通うリッチな大学生活を送っているんだから目も当てられない。私はまだまだ親の思い通りになるすねかじりなのだ。
 文面の最後は、週末は前言ったように開けておいてね、お母さんそっちに行くから、で締めくくられて終わっており、私はわかった、と一言返して携帯電話を閉じた。途端、大きな溜息と虚脱感に見舞われる。
「お母さん、私の試験結果と就職活動なんてどうでもいいんだ」
 私の将来を結婚で締めくくろうとする父母の気持ちなんて分かっていたことだけどこうまであからさまだと涙も出てこない。
「でもね、私はずっと頑張ってたんだよ」
 決められた将来も、勉学も、私は今なお足掻いてる。総ては結果、結果なのだ。必ず合格して此処から飛び立たなければ。時間を無駄にしてるつもりはただの一ミリもないけれど、……ああエステの時間は無駄かも。虚空を見つめた眸を閉じしばし考えて、私は再度シャープペンを握った。

 週末はすぐに訪れた。夜更かしして勉強したのに朝の七時半に起きれた自分はえらいと自画自賛と欠伸と共にインターフォンに応答すれば、其処には満面の笑みの母が映っていた。
、まだそんな格好なの? 起きて何してたの」
「……朝ごはん食べてた」
「なら早く済ませて、着替えて頂戴。顔もクリームを塗る程度でいいわ」
「眉くらい書かせてよ」
「宜しい。政宗君は?」
「居ない。でも朝ごはん置いてあったから夜遅くに帰って朝早く出たんだと思う」
「……もう、貴女ときたら。政宗君に感謝なさい」
「なんでよ」
「今とっても忙しい時期なのよ。お父さんなんて会社や近所のホテルに泊まってるくらいなのに」
「え?」
「聞いてないの? うちと政宗君のとこ正式に合併するのよ」
「は!?」
「まあ貴女忙しいから政宗君言わなかったのね。で、今日はその式典」
「はあ!?」
 其処まで聞いて私は手に持っていたクロワッサンを落としそうになった。そういえば最近の政宗の朝御飯のメニューは会社近くのパン屋のラインナップが増えた気がする。食パン一つ、フランスパン一つ拘る彼には珍しいことだった。それでもサラダや生ハムが置いてあるあたりは政宗らしいと思った。
「行くわよ。早く顔洗って歯を磨いて」
「え、あ、あ?」
「貴女も行くの。メインなんだから」
「なんで」
「お披露目するからに決まってるじゃない!」
「いや、意味が」
「もうサロン予約してるのよ。式典は夕方だけど全身綺麗にしてあげるからね」
「だからお披露目って」
「わからない子ね、貴女と政宗君の婚約のお披露目よ! それ以外に何があるって言うの」
「いやちょっと待ってよ!!」
「待ちません」
 冗談じゃない! 私の親はいつも唐突だ。こんなときに、私が動けないときに! ああだからか、だから畳み掛けようとしているのかもしれない。でもね、私が悩んでいることをこの母は一番知っているはずなのだ。なのになんで!
「お母さん! 私納得してないよ!!」
、政宗君で後悔しないわ。前にも言ったでしょう?」
「お母さんは本当にそう思ってるの?」
「勿論よ。でなければ誰がすすめるもんですか」
「……」
 外野は何時だって気楽なのだ。母すらやはり味方になってくれはしない。嫌だと断ってもドアの外に居るであろう家人達が私を引きずり出すのだろうか。
「……二十分待って」
「分かったわ。お母さんも座っていていい?」
「車で待ってて」
「仕方ないわね」
 母は溜息を付いてドアノブに手をかける。私はうわ言のように呟いていた。
「なんでこんなに、突然、今日なの」
「……貴女試験があったでしょ」
 背を向けたままそう答えた母は静かにドアを開いて出て行った。居た堪れなくなって私は首を振るしかない。
「何なの? 気遣うくらいならこんな、っわっかんないよ」
 只々前髪をくしゃりを握る私には大人が何を考えているか分からない。もう二十歳を超えたはずの私だが社会に出ていない分彼らとは決定的な差がある。見識であったり、事の為し方であったり。だからといってこのまま流されてやるものか、絶対に飛び立ってやるのだと私はもう一度パンをかじった。

- continue -

2013-03-02

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