普段と違うことをしたのが運の尽きだったのかもしれない。
自分の今後、過去を掘り起こす同窓会のはがき、沈鬱になりがちな気分を一新しようと模索していると思い出した。今日は何百年に一度かのなんとか流星群が見れる日だと。なんとなくカーテンから覗く空間を見れば何時もより明るい気がして、誘われるようにベランダに出たのだ。
それがいけなかった。
ものの数分もしなかったと思う。マンションの下に見慣れた高級車が止まって後部座席から降りてきたのはやはり見慣れた男と知らない女だった。女の顔は遠目にも美人で身綺麗でスタイルも良い。政宗の傍に立って余計にそれが映えるようだった。二人は二、三会話した後、女がそっと近寄って熱烈な口付けを交わしていた。見間違いなどではない、これが違うというのなら私の目は相当腐っている。
「……そういう、もんだよね」
諦めの境地とどうしようもない虚脱感に襲われる。仕方ないなんて最初に思ったのに、足はガタガタ震えてベランダにしゃがみ込んで隠れて、私は何を泣いているのだろう。政宗だってつまんない許婚と四六時中居るより快活な美人がいいに決まってる。政宗からすれば私と婚約してること自体罰ゲームに等しいのだから。
「……あ、戻ってきちゃう」
一方で異様に冷静な思考がこれから起こりうる一連の作業を掘り起こして、私は定まらない足元を引きずりリビングを横切り、そろそろ帰ってくるんじゃないかとあたりを付けて温めていた鍋の火を止め、それから自室のロフトへと上がって布団に包まった。暫くしたら施錠をはずす音と彼の足音がして、ああやっぱり間違いじゃなかったんだ、別人ならよかったのに、と泪が溢れて零れて悔しかった。そしたら珍しくノックをされて、? と声を掛けられて。でも応えるなんてとても出来なくて、ただ入ってこないでと願いながら掛け布団をぎゅっと握り締めて息を殺した。やがて消える気配に鼻を啜ってカーテンから零れ落ちる明かりを見て思う。
ああ、今日はきっと夜が長いって。
翌日、寝付けなくて思い切り泣いた顔はひどいものだった。共有空間のダイニングには朝食が置いてありそれを作った政宗の気配はなく、そういえば此処一月は早めに出勤すると言っていたのを思い出した。
「あの人に早く会いたいからじゃないの……?」
彼が作ったハムエッグはとうに冷め切っていてそれが私たちみたいで悲しい。よく晴れた空が一層妬ましく、私は残りのパンをかじった。
なれた化粧で誤魔化して今日も学び舎へと通う。化粧が女の戦闘服なんて先人たちは実に巧いことを言ったと思う。コンシーラとアイシャドウは腫れぼったくなった眸を隠す。言うなれば傷を隠す包帯と一緒かもしれない。私まだ戦えるな、全然平気じゃん、なんて軽口も出るというものだ。でもそれは所詮包帯で、肌を覆うのは鉱物の粉でしかない。
「どうしたんだ?」
私の武装なんて紙で出来た鎧を着る足軽に等しく、講義室で心の支えである親友の顔を見れば雨に濡れた紙の鎧は溶けて生身が、心が剥き出しになるのだ。
「……か、すが……」
講義前だというのにかすがにしがみ付いてしゃくりを上げて泣いてしまった。きっと皆何事かと視線を投げ掛けてくるに違いないと思うのに泪は留まる所を知らなくて、感情も何もかも制御出来ない。かすがは黙って抱きしめ返してくれて、無口だけど優しい小太郎君はハンドタオルを差し出してきた。口元が、新品だから、と形どっていて、洗濯さえしてればお古だからなんて気にしないのに、小太郎君可愛いと思った。その後ろで泣くと無敵になれないぞと煩い直江君も彼なりの気遣いだと思えばそれもまた嬉しかった。
「講義が始まりますぞ。殿、休憩室に行きなさい」
いつの間にか時間になったのか立花教授の姿もあった。すみませんと謝って、当然のように付き添ってくれるかすがと室外に出るとき教授は少し目を細めて私たちに耳打ちしてきた。
「何があったか手前は知りませんが思う存分泣いていらっしゃい。出席にしておきますから」
教授も小太郎君も直江君も男前だと思った。――なのに私に一番近い男はこんな言葉など言ってくれない。それどころか私を苦しめる大きな原因でしかないのだ。今はまだいい、あんなことがあっても、あんなことをされても、私にはかすがたちが居てくれる。でもこの先は? 卒業したら、私はどうなってしまうのだろう。
「落ち着いたか?」
大学の休憩室という名の空間には様々なリラクゼーション設備が整っている。カフェであったり、個室であったり、ラウンジのような趣のものまで様々だ。講義も始まっている為人はまばらだがそれなりににぎわうその場所から、かすがが誘ったのはカフェスペースの最奥で耐震構造上の理由で設置してある壁のちょうど陰になる位置だった。そっけないといわれる彼女だけど私のとっては何でも理解してくれる友人で、心根の温かい人だということを知っている。そう、今彼女に手渡されたココアのように。
「何があった? ゆっくりでいい話してみろ」
「うん……昨日の夜ね、私の許婚、が、ね」
唇を動かしながら記憶を辿れば走馬灯のように脳裏を駆け巡る耐え難い光景。手の中にあるホットココアが揺れる。
「言いたくない箇所があれば端折っていい」
「あ、りがと」
それからたどたどしくではあるけれど昨夜の出来事を話した。かすがは時に憤慨し、時に背を摩ってくれた。これまで何度政宗のことを彼女に相談しただろう。いくら友人でも男女のことを何度も愚痴られるのは面倒なことこの上ないはずだ。なのに彼女はいつも聞き手に徹してくれ、本当に得がたい友人だと思う。だから、政宗との小さい頃の思い出、中学に上がってからの距離、そして大学に入ってからの同棲、彼女にだけは話した。ただ一つ、高三の夜のあの出来事だけは私の胸のうちに仕舞ってある。言えば私の中のぐしゃぐしゃした感情の止め処ころが分からなりそうで、そんな私をかすがに見て欲しくないと思ったからだ。
「ごめん、もう私も泣き止まないと」
「気にするな。――許婚の前では泣けないんだろう?」
「悔しいから、泣きたくない。それに」
「それに?」
「うざがられたくない」
「……」
私は大きく息を吐いて口元を湾曲させて見せた。
「ありがと、いっぱい泣いたから頑張れそう。次見たら笑ってやるつもり」
「その意気だ。だが無理はするな」
「うん。大丈夫、あの頃とは違うから。大人になったから」
「ああそうだ」
その時、かすがのバッグからバイブレーションの音が漏れ出で彼女はポケット部分を弄り白色の携帯電話とを取り出すとディスプレイに表示された名前をみて一瞬眉を顰めた。それから悪い、と一言言い立ち上がって聊か不機嫌顔で通話ボタンを押すのだ。
「何の用だ。講義中だ。……さぼりではない、下らん話なら切るぞ。――あ、ああ、私も少し話がある。――図に乗るな阿呆め」
と、随分と突っ張った口調だったが、かすがはある特定の人物にしかこういう口を利かない。通話を終えた彼女に誰だったの? と聞くと、腐れ縁のバカだ、とやはりけんもほろろな紹介に少しだけ笑ってしまった。かすががそういうのは彼女の幼馴染の男性らしい。私と政宗とは違う幼馴染のかたちがそこにあった。
「講義、聴けなくてごめんね」
「ばか、お前が気にしなくていい。もういっぱい飲むか?」
「そうしようかな」
「まってろ、今日は奢ってやる」
「でも」
「私の顔を立てろ」
少しだけ口を緩めかすがは立ち上がってカウンターへと向かう。冴え渡る美貌もすっきりとした所作も彼女は完璧だ。もし、彼女ほど私が美しかったら政宗はずっと私を見てくれていただろうか。彼女のように凛として自信に溢れている女になれていたら私も浮気しないでって言えただろうか。嗚呼、今はやめよう。
「頑張るとか、泣きたくないとか」
これ以上嫌われたくないからイイ子で居たいだけの私、結局はないもの強請りにしかならないのだから。
- continue -
2013-02-23
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