(十二)

 お伊勢参りにくる人々に白湯を振る舞って一息付いた尼君は近隣の村人からの嘆願や寺社からの連絡事に目を通していた。内容はほぼ一緒で先日火の手が上がった駿府の城のこと。近々戦が始まるのではと大方の予想はあったものの皆駿府にそのようなことが起こるとは思いも寄らぬ事だった。口伝てに、あれは付け火であったらしいと伝わるものの、すわ此処が戦場になるのではと皆戦々恐々としている。
 分からぬでもない。あの日の夜半、手水に立った尼住持もまた海を挟んだ城下の方角に不釣り合いな明るさを感じて年甲斐もなく眺めていた。大火が起こったにしては小さい気もして、烽火の見間違いかとも思った。そして天下人の領地の近くとなっても未だ乱世とは切り離されぬものだと諦観した。さりとて城の方で何かあったなら尼寺としては無関心ではいられない。焼き出された者が流れてきていないか数日伊勢の周りを見て回った。
 そうして見つけたのだ。懐かしくも悲しい、だが何も諦めぬ彼の人の姿を。
 関ヶ原の折、大坂城に籠もった彼の人は助命嘆願もあったようだが主立った西軍の諸将同様に処断されたと聞いていた。それを聞いたとき御仏に仕える身にも関わらず、お若いのに気の毒に、とは思わなかった。彼女がどれ程竹中半兵衛に心酔し身を粉にして仕えていたか知っていたから。むしろ竹中半兵衛が身罷ったと聞いたときのほうが気を揉んだのだ。あの方はこれからどうやって生きていかれるのかと。止まらぬ斜陽に奔走していたのは知っていた。だからやっとお楽になられますね、と静かに手を合わせ冥福を祈るに留まった。
 だが今、尼住持は後悔に暮れている。数日前お伊勢参りの一行の中に思いがけず彼の人の姿を見たときからそれが間違いであったと思い知って。
 数年ぶりに姿を認めた彼の人はとても美しかった。否、あの頃より女性らしかったと言っていい。あの頃とて綺麗な衣裳は着ていたし身だしなみに無頓着だった訳ではないが、年を経て得た艶と憂いを帯びた眸は男たちが放ってはおかないだろう。しかしその中に豊臣への郷愁と思慕は消えておらず、一目で分かった。望まぬ生き方をしていたのだと。もしあの処刑の場から逃げ出してひっそりと生きているならそれで良いと思った。いつしか恨みは消え、穏やかに生きる、そんな生涯を送ることのほうが彼女らしいと常々感じていた。でもやはりそうではなかった。何年経っても、衣が代わっても彼女は豊臣の軍師のまま。
 どんな数年であったか尼住持は聞けなかった。どんな境遇も彼女にとっては不本意に他ならない、と思えば彼の人の処刑の報を聞いた時、遺体の引き取りでも申し出れば彼女の足取りが追えたかもしれず、せめて心の慰めが出来たのではなかろうかと心が締め付けられる。
「せめてあの方のお望みを叶えて差し上げるが私の道でしょう」
 多分その先には滅びしかなく、文字通り彼の人は死地に向かっている。それは分かっているが今生こそが彼の人にとっての地獄。すべてやり終えたとき、多分命を絶つだろう。だが、それこそが救いなのだから無情と言う他ない。
「ああなんて……」
 尼となって沢山の不条理をみてきた。どんなものも心苦しかった。幸不幸は人それぞれ、けれどあんなにも恵まれた娘がすべてを捨てて身を捧げて死のうとする矛盾。誰かが末法と説いたが本当にその通りだと思う。それがこの世での修行だと言える性格であったなら自分も随分楽だっただろう。
「――尼住持さま……」
「ああ、なんです?」
 いつの間にか部屋の外には尼になったばかりの娘が控えていた。彼女もまた戦乱で親兄弟を亡くし行き場がなくなった者だ。尼になる前下働きをしており、読み書きを教えいずれはどこぞへ嫁にやろうとしていたが、当の本人はまた家族を失うのは怖いと所帯を持つことを拒み仏門へ入った。こんな思いをする女たちがこれ以上出ないよう早く戦乱が収まればいいと願う。尼の期待はいつも裏切られるけれども。
「お参りの方々の今夜のお宿は皆決まったようです。今宵ここを使わずともよさそうです」
「そうですか。それは良かったこと」
「昔に比べて此処を使うことも道で寝る者も減りましたね」
「そうね、それは戦がないということ。皆が潤っているということ。とてもよいことね」
「はい。あ、それから出入りの者らが、尼住持さまのご身内の御方はどんな方だと興味津々で……」
「もう、本当につまらぬことを聞く人たちね」
「綺麗な御方ですから仕方がないのかと、皆あわよくばお近づきになりたいんですよ」
「同じことを仰い、尼の親戚の娘だと。説得はほぼ終わって紀伊に送るから此処に長居はしませんよと」
「心得ました」
「貴女も他言無用ですよ。年頃の娘があれこれと言われては後々障りがありますからね」
「はい」
「それにしても、お部屋から出ていないというのに皆よく見つけるものね」
「人が沢山来るお伊勢とはいえ皆普段と違うと目に付くんですよ。所謂、そう、噂好きなんです」
「困ったこと。内裏とも繋がりのある尼寺をどうこうする者はいないでしょうけど醜聞が立ってはたまったものではないわ。あの子は早く帰らせましょう。船も明後日にはあるはずですしね」
「あの御方は、尼住持さまの……」
 まあ、と内心大きな溜息を付いた。この身近な弟子でさえこの有様である。まだまだ煩悩との剥離は遠い。
「そうですよ。大層な家ではないけれど武家と付けば色々と柵(しがらみ)があるのですよ。そう考えれば尼になれた私など気楽なものです」
「尼住持さまも何かおありになったのですか?」
「ほほ、私などはつまらぬものです。なれど他家の姫君などは親兄弟を失った後にいきなり聞いたこともない許婚が出てきましてね、断りたいのに主君の命令とかで拒むことが出来ず結局屋敷を捨てて逃げたという話もありますよ」
「財や家名があったって男手を亡くしたら女はどうしようもないんですね……」
「そうねぇ、そもそも今となってはその許婚話も本当だったか分からないことです。領主とその家臣に財を狙われたのかもしれません」
 親兄弟を失った若い尼には酷な話であるとは思ったが黙り込む彼女に、だからこのような尼寺が必要なのですよ、と微笑むと彼女は小さく頷き深々と頭を下げて辞していった。その足音が遠のくのを聞きながらも、その話は作り話ではない事実に首を振る。ことに女は生きにくい。中には女領主もいれば良き夫に恵まれて采配を振るう妻もいる。しかし大概が男の望むまま嫁ぎ、争いに巻き込まれ、時に家族を失い身を墜とす。あのでさえ竹中半兵衛を失ってからは転落した。否、主君を失って転落するなど男にもあること、むしろ身を堕とすよりも、生か死か選べぬ男とて決して楽ではない。
「いやいや、御仏に仕える身がこれではいけませんね」
 外に目をやれば空は曇りだして夕焼けがみえない。出入りの漁師が雨の匂いがしないから本降りは明後日あたりだと言っていたのを思い出す。
「今宵は月もみえぬのでしょうね」
 とすれば今日あたりに逃がした方がよい。大坂まで海路は難しくなるだろうが、紀伊あたりなら一度は太閤の直轄地になった事もある場所だ。何日も同じ場所で足止めを食らって追手の危険が増すよりは遥かにいい。残念ながら弟子もあれではうっかり漏らす可能性も高い。
 尼住持は立ち上がり二間隣の部屋の長持を開ける。中には沢山の女物の古着があり、目立たずいざとなれば捨ててもかまわぬものを選別する。旅の供をして少々くたびれたものが望ましい。要らぬと言ったのに宿代の代わりに置いていったものや、お伊勢参りの帰りに病でたおれた女のもの、少々いわくがあっても庶民らしくを隠してくれる。
「あとは……」
 京との行き来に無理を聞いてくれた者らに連絡するだけだ。彼なら多少の闇夜も動いてくれる。戦を経験しているなら支度もすぐに終えるだろう。外はまだまだがやついている。尼住持は寺の者にも気付かれぬようそっと動き出した。

2021.03.29

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