15
ワシはいつも強迫観念に駆られていた。
三河の小さな竹千代に嫁いできた美しい。国主とは名ばかりの、大きな大名に翻弄されるだけの田舎武士のワシには名家の姫は不釣合いだった。はそんなこと気に留めずワシを愛して大切にしてくれた。幸せだった、必ず守っていこうと心に決めていた。
だが、やっかむ奴は大勢いていつが奪われるかと怖かった。今川の、何と言ったか、三河の人質とワシを嘲笑った今川の家臣、ああ、孕石だ。ワシを笑うだけなら構わなかった。けれど奴はを引き合いに出し、自分に嫁げば苦労しないだの、いっそ攫ってしまおうか、貴様にはどうにも出来まいなどと言ったのだ。
がこんな男の手に汚されるなど想像するだけでも耐えがたかった。殺意をいうものを覚えたのはこのときが初めてだった気がする。
今川殿が信長公に敗れたのを期に独立した後、何処へも行かぬようを閉じ込めた。動機はそれだけではない。が生きていると知れば人質にも取られただろうし、今川の生き残りを殺せと言われかねなかったのも理由だった。涙を沢山溜めた彼女の眸が美しくて心は痛んだ。最初はを護りたかった。只誰にも渡したくなかっただけだった。そうしたら自分の中の歯車が少しずつずれていく音がした。
作左は難しい顔をして、作左はこれ以上気が進みませぬ、と誰彼憚ることなく言った。作左の気性なら予想が出来た答えでそれを咎めるつもりはない。そんな作左を同じ本多の正信が上手く宥めていた。忠勝を含め同じ本多でも三者三様、ワシにとっては誰も得難い家臣だった。正信の言葉に根負けしたのか何かを決めたのかは分からないが、協力しつつも作左はをわざと侮蔑の目で見るようになっていた。同情すればに良くないことが起こると思い距離を置いたのだろう。作左なりのワシへの牽制でもあったのかもしれない。
独立して直ぐある城の攻略に成功して、その城に居たあの孕石という男を捕らえた。あの男はどうなったか。
「ふっ、はは、ハハハハハハハ!!」
思い出しても愉快で堪らない。罵倒して、あらん限りの苦痛を与えて! 命乞いをするあの男は傑作だった。
が密かに徳川の家の為にと金子を渡し、それを受け取って家中の金策をしていた大賀弥四郎も同様だ。あの男はに懸想し、その職務に感けて彼女に手を出そうとしていたのだから。奴には武田と内通したと汚名を着せた。表向きはにも同じ罪状が付いたのだからお前も本望だろう?
汚名の件はには悪いと思っている。だが隙を見せたお前も悪いのだ。だから大賀を利用して彼女を逃がそうとしていた乳姉妹の首をお前に見せた。お前は真実を知らなくていい。それを知ったら罪悪感に襲われてしまうだろう?
徐々に心が殺がれていくが可哀想でならなかった。けれど一向に自分のものになった気がしなくて彼女が愛でるものを一つずつ消していった。箏であったり、華であったり。子供を抱けぬ彼女がおぼろげになっていってもそれでも不安だった。
子供を取り上げたのは表向き死んだことになっているの存在が漏れることへの懸念だった。無論、が生んだ子供だ。ワシだって心から愛おしくて可愛い。だから人質に取られる懸念のあった三番目の子供は信頼する作左に預けたのだ。
それなりの思惑もあるとはいえあまりに彼女が哀れであったから、ある日、思い立って香道具を贈った。控えめに彼女が礼を言い、それだけで満足だった。だがその時うっかり侍女が香道具を割った瞬間のの顔にワシの心は翳った。彼女の心が、ワシの贈った香道具より、粗相をした侍女への心配に注がれていたからだ。表情はすぐに戻ったが侍女からワシの気を逸らすように、家康が選んでくれたものだから嬉しいと必死に歓心を買おうとするのが分かって、思った。ワシはを一つも手に入れられていないと。
ワシはそれ以上追及せず、侍女も罰さなかった。忠義者は一人くらいの傍に居てもいいと思ったのだ。何かのときの盾になれるように。
あのあと付きの侍女が謝罪に来た。真っ青な顔をして畳に頭を擦り付ける彼女にワシは笑顔で答えてやった。いいんだ、はまた選んでもらえて嬉しいと珍しく笑顔を見せたからな。これからもに仕えてやってくれ、と。
だが侍女がかつての乳姉妹のように余計な気持ちを抱いを逃がそうとしては堪らないから、城勤めの傍ら徳川の家臣と縁付けた。良縁だと彼女の親は喜んだろう。申し分ない男だとワシも思う。侍女がを逃そうとしたら殺さなくてもいいがワシに知らせろ、とだけ申し含めた。感の良い家臣は総て了承してあの侍女を娶ったのだ。侍女は見事、が攫われた時、の盾となって死んだと聞く。
あれ程細心の注意を払っていたのにの存在は隠し通せなかった。朝日から竹中半兵衛へと知らされてしまったのだ。をこの手に置く為、関東への国替えも甘んじて受けた。いつかこの手にと誓う野心を隠し切ったワシは文字通り狸なのだと思う。
だが妻に関しては相変わらずで、どんなに捕らえてもの心が遠くて奪われる気がして八方塞だった。子から離されたもあの時期は限界だったのだろう。を気の毒がった母がワシの怒りを承知で彼女に会った、と言った。
「どんなに家を思うても、腹に宿った我が子は忘れられぬ。私とて幼くして離れた小さな其方を一日とて忘れたことはない。母が子を忘れぬのは、前提としてその父となる男を愛しているからだ。でなければ誰が憎い男の子など」
母は嘘を吐いていた。自分の父は心の弱い男でそれを頼りなく感じていたはずだ。けれど母性というのは強くて腹に宿った自分は愛しいと思っていてくれたに過ぎないのだ。夫を忌み嫌いって、だが子を愛している女子などごまんといる。母上、母上こそ父上のこと、それほど愛しておられなかったのではないのでしょうか。父と離されれば他に嫁がれ他の男に抱かれ子をまた産まれたではありませんか。とてワシがいなければそうなるのだろう。言葉を呑みこむワシに母は心苦しそうな目の色を湛えていた。
「その夫に我が子を奪われれば、その心何処へ行こう? 心狂わせてはならぬ。ああもなっても其方の手許におるではないか」
だからワシは滅ぶ訳にはいかぬのだ。
母上は自分を愛してくれている。だからこその苦言だとも分かる。母を処断する気などない。再婚に再婚を重ねさせられた母上には楽をしてもらいたい。だが、これだけ閉じ込めて外部と接触を断ってもお前を忘れる者は少ない。寧ろ手を差し伸べるものが後を絶たない。閉じ込めなかったら、どうなっていたのだろうか。
母の言葉を受け入れ江戸に着くとに子供の姿を見せるようにした。彼女は菓子も茶も取らず子らを眺め、居ないときでも只管待つ姿を何度か見た。自分には見せないその切なげな眸を何度欲したことだろう。産んだだけでも母性はあるのだと母は言ったがその通りだと思った。
時が満ち、ワシは秀吉公に反旗を翻した。強さを誇る彼は日ノ本を手にしても何かに憑かれたように先へ先へと力を求めた。長き戦乱で疲れ果てたこの国が世界に出たら、考えるだけで恐ろしかった。否、を手にしてももっともっとと彼女を求める自分と重なり嫌悪感が出たのかもしれない。
半兵衛殿はそれを予測していたのだろうか。彼は身罷る前に一手を打っていた。豊臣方の忍びは当の昔に処断したと思っていたが、半蔵麾下の忍びに裏切者が出た。長く仕えていたくの一が豊臣と通じを攫ったのだ。あのくの一はに縁故のある者であったらしい。巧妙に隠された素性は裏切りを憎む三成の手にかかった後で知ることになったのだが。
が攫われたと知ったとき、この血はこれでもかというほど逆流した。血眼になって探していたところにお市殿が現れて、光色さんの匂いがする女の人があのお城に居るよ、と伝えに来た。身の上を案じて一時保護したがその後はまたふらりと居なくなった。彼女の安住の地は何処にあるのかワシには分からない。只、弱弱しく掴みどころのない彼女は不思議とを思い出させた。
前後を省みず徳川軍を動かしてその城を押さえようと焦るワシに、和解した元親が慌てて止めに入った。何があったのだと聞いてきて、ずっと隠していた正室がいる、子とも離して酷いことをした。その彼女があの城に囚われているのだと話すと、元親はひどく驚いていた。頭を掻いて、まあ良かぁねえなァと呟いた元親はワシの肩に手をやった。
「助けりゃ話し合うことも出来る。付き合うぜ?」
元親はいい奴だ。こんな後ろ暗いワシを見ても態度を変えようとはしないのだから。
巫殿や雑賀衆らに一時的に陣を任せて、城に乗り込んだワシは間一髪のところでを助けることが出来た。顔も分からぬ我が子を護ろうとする彼女の姿は胸を突き、今までワシに怯えるばかりだったのに噛み付いてすらきた。嗚呼女とは母とはなんと尊い生き物なのだろうか。
久方ぶりに組み敷いた彼女は一層美しくてそれがまた不安を掻き立てた。こんなに美しい彼女を敵将たちが放って置く筈がないと。なんて下卑た考えなのだと思う。違うという彼女にワシは手を止めなかった。止めれなかった。
信じてもくれないと彼女は堰を切ったように泣いた。多分あれがの何かを砕いてしまった瞬間なのだろう。あれから彼女は何もかも諦めたようにワシにされるがままだ。子供のことも口にしなくなった。とても心配になった反面、を独占してるのだと思うと今でも笑いが止まらないのだ。
人払いをした大きな書院に佇み一頻り笑った後、ワシの心に去来するのは虚しさだった。あれからの心からの笑顔を見ていない。見れるはずもない。愛を囁いても彼女から愛を貰えるはずもない。
皆がワシを日だという。だがな、日ばかりでは皆が持たないんだぞ。月があって夜があるように、日照る地を潤す雨が居るのだ。ワシにとってはそれがだ。肌に触れれば凍えた心に灯りが燈る。口を吸えば渇きが消える。生きる為に必要な女なんだ。誰にもやらないワシだけのだ。
それでは駄目だと作左は言った。正信は心配げにワシをみた。忠勝は全てを覚悟したように付き従った。
「ああ、夜がまだ明けない。三成、お前が隠しているのか?」
分かっている。破綻していることぐらい。
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今日もは相変わらず庭を見ている。ワシは長い軟禁生活から彼女を解放した。居室は相変わらずワシと同じだが。明るい採光に開け放たれた障子の先、光に当たる彼女は日焼けもするはずなのにワシにはますます白く美しく瑞々しく映った。
今日はに一つネタばらしをした。ここは何処なのか、という答えだ。此処は駿府の今川館の址だよ、これから沢山昔の思い出に浸るといい。旧や今川の家臣がいたらが召抱えてあげるといいよ、というと彼女は少しだけ笑った。
いいよ、日ノ本の天下を取ったワシからお前を奪える人間なんか居ないから、お前が逃げるなんて思わないから好きにさせてあげる。これから沢山ワシの前で笑っておくれ。
此処はとワシが出会った場所、を手に入れようとした男を屠った場所。此処はを手に入れて一生を共にする場所。どこへも行かさないワシの。
ああでも何故だろう。ワシは何かを信じることが出来ないんだ。この手からお前が滑り落ちていくようで。友さえ、友さえ屠ったというのに。
お前は永遠に高嶺の花なんだろうか。
美しい庭をずっと見ていた。どんなに手入れされた庭も空を飛ぶ鳥も私にはもう張りぼてのようにしか感じられなかった。こんなに絢爛な城に居ても心は別のところに置いていたから。
父に言われるまま嫁いだ一つ下の三河の国主。屈託がなくて一緒に居るのが楽しかった。元服裳着も済ませた夫婦の癖に時折追いかけっこだってした。今川と織田に挟まれて領国経営はいつも大変そうだったけど、分からないなりにずっと助けようと思ってた。
なのに、貴方が望むものと私が望むものは大きく違ってたらしい。私は貴方を愛していたしずっと貴方しか見ていなかったのに。
ふと家康が楽しそうに声をかけてきた。
「、一ついいことを教えてあげるよ。はこの城の名前を知っているかい?」
「いいえ」
「この空にも穏やかな気候にも覚えはないか? 此処は今川館の址だよ。今は駿府城っていうんだ。ほら、あちらの方角、一緒に遠駆けに出た寺社が見えるだろう?」
それから彼は饒舌に昔の話をし出した。それから今川やを思い出して懐かしい思い出に浸るといい、旧臣とて召抱えて構わないと言った。彼自身義元様の遺児を保護しているらしい。急にどうしたの? と思う前に私は鼻で笑ってやりたくなった。今更何を。もう何かを求める心は消えた。貴方が何を与えても、貴方が望んでいいといっても私は何一つ望んでやらない。
家康、貴方はずっと私から今川を取り上げた。徳川の裏切りによって父母は自害に追い込まれ今川の血族であるこの”築山殿”も替え玉を立てて殺し、只一人という女を城の奥へと閉じ込めた。そして私を思う様扱ってきた。
だけどね家康、貴方は知っていて? 浜松の城をはじめて築城したのは私の祖先だということを。私はあそこでも十分今川を思い出せていたわ。ずっと拠りどころだったわ。
……家康はきっと、気付かぬうちに幼い頃に味わった屈辱から逃れられていないのかもしれない。絆を尊び天下を治めても、今川の娘の私を此処に閉じ込めても。
友を失くし、表では品行方正を貫く家康はひどく孤独なんだと思う。彼に付き従う家臣は彼を止めようとはしないから。家康が正しいってそればかりだから。
だから家康の道を示した武田信玄を異常なほど尊敬したのではないだろうか。
それはとても寂しいね家康、悲しいね家康。
高嶺の月という言葉がある。全てが終わるとき、貴方は満足して逝けるんだろうか?
結局、今川という存在に取り憑かれていたのは、私も貴方も一緒なのかもしれないね。