ハリイブキは柔らかな日の光をその身に受け葉を鳴らし揺らめいている。元就は寄りかかったままその天照らす光を眺めていた。
『時が幾度巡ろうと、日輪は変わらぬ』
鳥は啼き、ハリイブキや白樫の木に羽を休める。その穏やかな様に一人目を細めよく通る声で呟いた。
『ならぬな、こう険が取れるようでは』
すべてを駒とし斬りつけることも厭わなかった日々、あの頃程冷徹な険阻さはもうない。月日が立つ度に少しずつ削がれていったのが分かる。ひょっとしたらこの日輪が少しずつ浄化しているのかもしれない。雪を溶かすように。
『埒もない』
眸を閉じて耳を澄ませば清らかな空気が流れる。身を任せれば一体となってしまいそうだ。なんと良い場所か。こうでなければ数百年此処で過ごすのは苦痛だっただろう。
鳥が一層啼き木々が音を立てると元就はゆっくりと首を動かした。
『また来たのか』
「ええ、ええ何度でも参りますよ。貴方様が頑なでいらっしゃるかぎりは。おかげで私もすっかりおばあちゃんになってしまいました」
すぐそこに品の良い老婦人が立っていた。元就はさして表情を変えず、と呼んだ。
『我は来いとは言うておらぬ』
「存じておりますよ頑固者」
『其方程ではないわ』
老婦人は構わずはいはい、と言いおいてハリイブキに腰掛けた。我の墓標ぞ、と元就は見たが婦人はにっこりと笑って花を一枝差し出した。それは此処では咲かぬ花で元就が生前愛したものでもあった。
元就は息を吐いてゆっくりと腰を下ろし可憐な花に触れた。
『――先頃、面白い者が来た』
「ええ、わたくしもすれ違いました」
『我に噛み付いてきおったわ』
「まあ、わたくし達の娘のような子ですわね」
『あれのほうがまだ聞き分けが良いわ』
「あの子の場合は貴方様が有無を言わさずねじ伏せていたではありませんか」
『減らぬなその口』
「ご存知のことでしょう?」
婦人は元就を見もせず、持参したであろう水筒を取り出して一つは湯呑みに、もう一つは水筒のコップに注ぐと、湯呑みの方を元就の前に差し出した。
「お好きでしょう?」
もう呑む事を必要としない身だがこの香りはいつになっても好ましい。黙って湯呑みの縁をなぞれば婦人の方から話しかけてきた。
「もう、気掛かりは晴れましたか?」
『ふん』
「元就様、わたくしももう足腰に融通が利かなくなって参りました」
『それだけ白髪が生えればな』
「憎らしいことをおっしゃいますな」
『事実だ』
元就の口調にも格別怒った様子もなく婦人は笑んだ。元就は少しだけ彼女の機微が気にかかった。
「――わたくしももうあと数年でございます。先頃おなかに腫れ物ができたとお医者に言われたのです」
ああ、と一瞬眸を閉じる。そのときが近いのかと。昔と同じようにまたこの女を見送らねばならぬのか、望んで別った道、分かっていたことだ。
『そうか』
「元就様」
『なんだ』
「あの頃は貴方様に腹を立ててこのような身になりましたけど、次は、一緒に過ごしましょうね」
元就は目を見開いた。それは望んではならぬと思っていたことだったからだ。その昔は幾度となく非情な裁断を下してきた。彼なりに愛してはいたが正室だったこの女を何度も泣かせたし詰られもした。我を押し通した結果、彼女は新しい生を歩み二人の時は別たれたのだと割り切った、そのはずなのだが。
だがなぜなのだろう、心は俄かに躍る。
『……それもよかろう』
「まあ! 今日は素直!」
『我が若うて、其方が皺だらけではかなわぬだけのこと』
「……撤回します、やはり小憎たらしいお方」
過去にあった懐かしい受け答え、容姿が変わろうと、名が変わろうと確かに元就が彼女に抱く感情は変わらない。あの頃と変わらず愛しているのだ。
『』
「なんでございますか?」
『我はまた毛利に生まれ出づるであろう』
「そうでございましょうね、諦めております」
『其方、必ず家格に合う家に生まれよ、出自にいちいち口出される面倒は持ち込む出ないぞ』
「あら、いっそ異国にでも生まれようと思っておりましたのよ。見つけ出しては下さらないのですか?」
『其方は可愛うない』
「おばあちゃんですもの、この歳で可愛くても……ほほほ」
『ふん』
「そうですねぇ、なるべくお傍におりませんと貴方様に後からぐちぐち言われるのも嫌ですしおっしゃるとおりに致します」
『余計なことは言わず只はいと言わぬか』
「言うと思いますか?」
『……』
「元就様」
『なんぞ』
「長く、お疲れ様でございました」
『それを言うにはまだ早いやもしれぬぞ、生あれば人はせわしい』
「そうでございますね」
非情に徹したあの頃、この女だけは物怖じしなかった。それが好ましかった。だが自分の背負った罪は大きい。また時を過ごせるなど永久に許されぬと思っていた。それをこの女は救い上げるという。
風は流れ、年月を重ねた彼女の髪を梳いてゆく。その様に品の良い歳のとり方をしたものだと元就は思った。
「また、子らに逢えますかしら」
『生んでもらわねば困る、あれらもうるさいのだ、我はここに残ると生きておる頃から言い含めておったに』
「素直じゃございませんこと、あの子もご勘気覚悟で参ったのですよ。愛されておる証拠ではありませんか、なんといいましたかしら貴方様のような方のこと、……そう! ツンデレというんですって」
『なんだそれは』
「なんでござましょうね」
彼女は噴出すのを堪えるように手を当て肩を震わせる。元就は訝しんだが、殊更楽しそうにするので何も聞かないことにした。
悪くない。
まだ自分に望めるものがあったのか、隙間から零れ出る日輪の暖かさがすべてを包んでいくように思えた。
『』
「はい」
『あと数年待てるか、いや十年掛かるやも知れぬ』
「?」
『あの娘の子を見届けてから我も往こうと思う』
「まあ」
『あの時のように先に逝ってはならぬ、別してならぬ』
「では、青汁でも飲んで頑張ります」
『あおじる? なんだそれは』
「げにまずい、薬湯のようなものにございます」
『耐えよ、良薬口に苦しと言うではないか』
「――言うほうはいつも簡単にございます」
老婦人は愛おしそうに枯れたハリイブキを撫でいつまでも語りかけた。彼女が話すたびに木々はざわめいて、それはまるで木々に意思があるかのようでとても幻想的であった。
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院
- end -
2011-05-18
意訳 滝の水は岩にせき止られ二つに分かれてしまうが、また下流の方で一つになるように今は仲を裂かれて分かれようと、来世ではきっと結ばれましょう。
鎮魂夢主ちゃんがすれ違ったおばあさんは元就の奥さんの生まれ変わり。
前世と同じように吉川の家に生まれて元就の墓を見守りました。