――『よいか? 今申した物の怪が出る故今より三日、決して部屋から出てはならぬ』
『はぁ、物の怪ですか?』
『返事は』
『――心得ました』
『はー、これで俺様も一安心』
『全くだ』
『そんなに恐ろしくておぞましい物の怪が本当に居るのですか? 居ても私など眼中に入らぬと思うのですが』
『居るのだ! そして入るのだ!』
『ああなんか頼りないっ! 俺様が付いていようか!』
『長、長は幸村様に付いてもらわねば困る。俺が付く』
『才蔵、空気読んで!!』
『佐助、気持ちは分かるが才蔵に任せよ』
『はーい……』
魚氷に上る季節を迎え、奥州の独眼竜伊達政宗は前年より思案に暮れていた案件を済ますべく南へと兵を向けた。戦をする為ではない。少なくは警護、多くは威信を見せ付ける為の行軍であった。目的地は信州上田城、城主は甲斐の虎武田信玄の家臣真田幸村である。済ませるべき案件、それはこの上田城で行われる。
上田城は大きな城ではないが尼ヶ淵の河岸段丘の上に石垣を積み、北は太郎山、南は千曲川、そうして外堀には矢出沢川を利用した天然の要害である。一目見た途端政宗は思う。この城は攻めにくいと。こうして内部に招き入れられ構造が分かっても熟考を重ねねばならないだろう。
「政宗様、此度は大切な席。くれぐれも真田と手合わせなどなさいませんよう」
「わーってるよ小十郎」
側近中の側近、片倉小十郎の何時ものお小言だ。この男に念押しされるまでもない。甚だ残念ではあるがこの場に刃は不要だった。此度、この上田で各国の勢力図に一石を投じるかもしれぬ大きな場が持たれる。奥州伊達と甲斐武田が和議を組もうというのだ。
この和議の場所も如何するか双方の国主より家臣達が揉めに揉めて冬を越し今に至る。どちらも味方の勢力圏内が良い。主君の身の安全は勿論、相手の良いようにと下手に出て今後の関係がそうなってはことだという家臣らの意見も尤もだった。互いの押し問答が続きようよう審議が尽くされた頃、武田信玄自身から上田ではどうかとの意見が出され、伊達側の家臣は信玄公の腹心の本拠地ではないかと憤ったが政宗自身は幸村の城を指定されたことに唇を吊り上げて、粋な計らいだと喜んだ。いくら腕の立つ男でも主君の顔に泥を塗るようなことはすまい。何よりだまし討ちを嫌うのはあの真田幸村自身だと、好敵手の顔を浮かべながら政宗は家臣を説得したのだった。
とはいえ実際にこの上田城を見れば武田の城は簡単には落とせぬぞ、と信玄が豪快に笑っているようにも感じられて少しばかり面白くない。
「hmmm...」
行軍の進みがよく、予定より半日早く到着してしまったのだが上田衆は一部を除いて嫌な顔一つせず迎え入れ上等な客間に通された。信玄一行は夕暮れに着く手はずだと、目の前の若武者は言う。嫌な顔をする上田衆の一部、そうそれはこの目の前で聊かギクシャクしている真田幸村本人も含まれていた。
日も上がりきらぬ春は暖かさの中に一陣冷たい風を運んでくるから御しがたい。満開の桜はその風に乗ってひとひら、幸村の手甲にその身を浮ばせて存在を主張してくる。
「おい真田、さっきからその態度は何だよ」
「何かと申されると……いや……」
「何落ち着かねえような、かと思えば心此処にあらずみたいな顔してんだよ」
「さ、左様に、ござろうか!」
指摘されても変わることのない様子に内心やれやれと首を振る。小十郎には否定したものの、信玄らが集まる前ならば大事にはなるまい、それ故隙あらば手合わせをと思ったが。政宗は思ったことを言ってみることにした。
「おっさんが来る前に手合わせしようと思ったんだがそれじゃあな」
「!」
「政宗様!」
「おい梵ー」
格段見なくても分かる。眉を吊り上げているであろう小十郎に半ば呆れ気味な成実の顔。政宗が面倒くさそうに右の手首を動かしてあしらうと目の前の好敵手は口を開く。
「……普段ならば望むところであるのだが、此度は大切な場の前故、その、遠慮致す」
「お堅いこったねぇ。安心しろ俺も今のアンタじゃ願い下げだ」
手合わせ、という言葉に釣られたのはほんの一瞬だった。和議の場に指定され緊張しているのか、それともまた何か別のことに気をやっているのか、何れにせよ命を懸けた死合に洒落込むことは出来なさそうだ。しかしこの男は一体何をモジモジしているのだろう。聊か気持ち悪くすっかり興が冷めてしまったのは事実だ。
「饗応その他諸々の仕度がある故某はこれにて」
「ああ」
「細かな手筈は佐助と、矢沢頼康にお伺い頂きたい」
幸村の後ろにはいつも通り腹心の忍びが控え、その横には政宗の腹心の一人鬼庭綱元と同世代であろう男が頭を下げた。落ち着いた風貌と所作に少なからず知性を感じる。
「矢沢……小焼松か」
「それは某の父の愛槍にて」
「そうか、悪かったな」
「お気遣い無きよう。それもまた誉れに御座いますれば」
真田の家臣であり血縁である矢沢氏の勇名は知っている。先だって攻め入ってきたという徳川を翻弄し撃退に大いなる戦功を上げたのはこの矢沢親子であったと聞く。真田家中で重要な人物であることは確かだ。そんな男がわざわざ来るのだから武田も真田もこの和議にいかに重きを置いているか分かるというものだ。
某はこれにて、と幸村は早々に辞して変わりに軽く飄々とした忍び猿飛佐助が忙しく畳み掛けてくる。
「はいはーい、竜の旦那ご一行様ー上田へようこそー」
「猿飛てめぇ……!」
「いいさ、相変わらずなのは分かった」
「んふー竜の旦那もねー、んじゃ手短に話すよ」
「好きにやってくれ」
「此処二の丸は竜の旦那や側近用に両左右端のの部屋まで開放してあるから好きにしていいよ。それから伊達軍の兵の皆さんには三の丸を開放してあるからね」
「猿飛、そっちの懸念も分かるがな兵と分断されるじゃねぇか」
「そう言わないでよ、武田方も主力は小泉曲輪に入るし、大将も本丸に入る予定だからさ」
小十郎の指摘に分断は一緒だよ、と猿飛佐助は続けその後ろから所帯を持っていそうな侍女が数人進み出て茶菓を添えてくる。牛皮餅にそっと桜の花びらが添えてあるのは女達の心配りだろうか。毒見はいらねぇぞ、という前に成実が政宗の餅を一つ掴んで頬張り、侍女におかわり、と皿を差し出すには苦笑せざるを得ない。
「で、あとはお願いなんだけど本丸の西側には余程のことがない限り来ないでねー」
「何故だ」
「右目の旦那怖ーい。そんなの秘密がいっぱいあるからに決まってんでしょ」
「おい猿、それを俺らに言うのかよ」
「いやーこそこそ隠して黒脛巾組さんに漁られるのもねー。先に言えばそれを面白がって漁る竜の旦那じゃないでしょ」
「そんなに胡坐掻いてっと分かんねーぞ」
「怖い怖い」
「Ha!」
佐助は手をひらひらさせて、頼康は深々と頭を下げて去っていく。二人ともまだまだ仕事があるようだ。
佐助はまだ知らない、この後今の言葉をもっと強く言っておけば良かったと後悔することに。
- continue -
2012-10-27
『上田城は天守も無き小城』と書かれる書物もありますが、あった可能性も捨てきれないこと、また2や英雄外伝をみると天守がありそうなことを踏まえてこちらでは天守のある上田城をイメージして書いています。